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更新日:2023年11月14日

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若林城の廃城とその後

寛永13年(1636)、政宗は参勤で江戸に向かう際、城の南西に杉を植え、堀一重を残し城を廃するように命じ、江戸でこの世を去りました。若林城の建物は寛永15年(1638)に忠宗により造営された仙台城二の丸の殿舎として移築したほか、一部は仙台城下の寺院や家臣屋敷に移築したとされています。また、廃城に伴い、若林城下も廃止され、小泉村に組み込まれました。
寛永13年に領内の検地帳を収めた若林の御帳蔵(ごちょうぐら)が火災にあったことや、貞享4年(1687)に焔硝蔵(えんしょうぐら)が爆発した記録が残っていますが、これらは城外での出来事とみられます。しかし、延宝8年(1680)の『貞山公治家記録(ていざんこうじかきろく)』にみえる「若林薬園」は、領内の建物などを記録した『御修覆帳(ごしゅうふくちょう)』にも描かれており、廃城後にこの地が藩営の薬草園となっていたことがうかがえます。これを裏付けるように、調査では近世の畑跡や、石組水路跡なども複数発見されており、若林城のその後の姿も次第に明らかになりつつあります。
明治12年(1879)には、西南戦争国事犯の収容を目的としてこの地に宮城集治監が設置され、のちに宮城刑務所となって現在に至ることとなります。

画像 若林御薬園『御修覆帳』宝暦~安永年間(東北大学大学院工学研修所蔵)

写真 石組水路跡(第6次調査)

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