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仙台市トップ仙台NEW/Sendai City Promotion Magazine第10号[2007.1]>「貞山堀」とその界隈

仙台NEW/Nature

歴史の生き証人「貞山堀」とその界隈写真/貞山堀

上空から見た、もうひとつの物流交通と仙台

 仙台空港への着陸態勢に入った旅客機が徐々に高度を下げながら、海面を滑るように滑走路に進入していく。太平洋に面して連なる砂浜の海岸線が美しい。よく見ると、この海岸線に沿って内陸側の松林に一本の長い水路が見える。全長33.38km。これが「貞山堀」である。

 岩沼市、名取市、仙台市、七ヶ浜町、塩竈市にまたがり、松島湾と阿武隈川河口を結ぶこの運河は、仙台の物流交通の発展とわが国の運河史に欠かせない生き証人である。

貞山堀に託した伊達政宗の夢
莫大な利益をもたらした新田開発と物流交通の整備
 江戸時代、仙台藩は62万石であったが、藩祖伊達政宗以来、肥沃な仙台平野を生かして積極的に新田開発を進めたことにより、実際の石高は100万石をゆうに超えていた。藩内各地から集荷された大量の米は、藩内を流れる北上川、鳴瀬川、七北田川、名取川、阿武隈川などの大河川と、それらを結ぶ運河が形成する舟運のネットワークによって輸送された。

 そして、17世紀後半から、藩内で消費しない余剰米は、江戸廻米として、主に北上川河口の石巻港から海運で江戸へ送られるようになり、仙台藩に莫大な利益をもたらした。最盛期には、30万石前後も江戸へ送り、江戸で消費される米の2〜3割を仙台米が占めたという。

写真/貞山堀
太平洋に注ぐ名取川と交差して南北に伸びる貞山堀。砂浜の海岸線の先には、塩釜港と小さな島々の風景が印象的な松島湾が見える。手前右は沿岸漁業基地・閖上(ゆりあげ)漁港と名取市閖上地区の住宅街

時代を超えた大プロジェクト
貞山堀(木曳堀・舟入堀・新堀)の開削
 この仙台藩の財政を支えた舟運ネットワークの一つである貞山堀は、阿武隈川河口から塩釜港にかけて、仙台湾の海岸線に沿った形で開削されたものであるが、その工事は大きく3つの時期に分けて行われた。

 最も古い時期に掘られたのが、阿武隈川河口の蒲崎から名取川河口の閖上(ゆりあげ)に至る区間で、「木曳堀(こびきぼり)」と呼ばれ、政宗の晩年から二代忠宗の時代の1597〜1601年に、川村孫兵衛重吉(かわむらまごべえしげよし)が手がけたと言われている。

 孫兵衛は、長門国(現在の山口県)阿武の生まれで、毛利輝元に仕えていたが、関ヶ原の合戦ののちに毛利家が減封されたのを機に浪人の身となった。その後、数理、土木、測量、鉱山などの知識と技術に通じた俊英であったことから、政宗に請われて伊達家に仕えた。政宗の孫兵衛に対する信頼は厚く、貞山堀の開削、北上川、江合川の改修、石巻港の開港などの土木工事のほか、製塩、植林、金山開発、製鉄などの数多くの業績を残している。

貞山堀(運河)・北上運河・東名運河の図
貞山堀の呼称
「貞山堀」という名称の歴史は比較的浅く、1881年に木曳堀、舟入堀、新堀の改修を行った際に、当時の宮城県土木課長・早川智寛氏(のちの第4代仙台市長)が政宗の贈名「貞山」にちなんでこれらの堀の総称として命名したものである。さらに1889年の全面改修を終えた際に「貞山運河」と改称した。ちょうどこの少し前に、「東名運河」と「北上運河」が竣工したことから、これら3つの運河を総称して貞山運河と呼ぶことも多かった。

 木曳堀の目的は、阿武隈川河口と名取川河口を結ぶことにより名取川・広瀬川舟運と連結し、阿武隈川流域と仙台城下を結ぶ物資輸送路を整備すること、そして、名取平野の新田開発を行うための農業用排水路を確保することであった。これによって、藩南部の新田開発は大いに進み、米はもとより、阿武隈川流域の木材などの物資が、仙台城下に集結する水運の仕組みが整ったのである。


このあたりでは市街地を横断して塩釜湾に続いている。貞山堀の左方向は多賀城市、右方向は七ヶ浜町

 次に、1658〜1673年に開削されたのが、七北田川河口の蒲生から塩釜港までの区間で、「舟入堀(ふないりぼり)」と呼ばれる。これによって、藩北部の穀倉地帯から北上川や鳴瀬川を下り、松島湾、塩釜港を経由し、仙台城下へ米を輸送する舟運が確保された。一旦、蒲生の米蔵に蓄えられた米は、そこから七北田川を遡り、仙台城下に向かって開削された「舟曳堀(ふなひきぼり)」を経由し、苦竹の米蔵まで送られたのである。

 最後に開削されたのは、木曳堀と舟入堀の間の区間で、天保年間に作る計画があったが実行されず、実際に工事が行われたのは明治時代に入ってからであった。この工事は、明治維新に伴う士族の救民事業として行われ、1872年に完成し、「新堀(しんぼり)」と呼ばれた。これによって、阿武隈川河口から塩釜港までの全水路が通水することとなった。

大久保利通の幻の野蒜築港

 明治維新を経て10年ほど経過した頃、鳴瀬川河口に「野蒜港(のびるこう)」の築港計画が持ち上がった。明治政府による東北地方の総合開発の国家プロジェクトとして当時の内務卿・大久保利通が強力に推進した計画で、野蒜港の築港、野蒜から松島湾までの「東名運河(とうなうんが)」と野蒜から石巻港までの「北上運河」の開削を骨子としていた。

 これは、日本初の近代港湾の建設事業であるとともに、野蒜から東名運河、松島湾、貞山運河、阿武隈川を経て福島県へ、野蒜から北上運河、北上川を経て岩手県へ、野蒜から鳴瀬川と陸路を経て山形県と秋田県へ通じる水運ネットワークを構想した壮大な計画であった。


鳴瀬川河口部に建設された野蒜港内港部への港口として、海中に突き出して築造された防波堤。1884年9月の台風で被災した

 1882年、野蒜港の第1期工事が完了し、1884年には東名運河と北上運河の開削が完了する。しかし、その一方で、1878年に計画の推進役である利通が暗殺され、物流も舟運から鉄道へと移行しつつあり、徐々に野蒜港の存在意義は見失われていく。さらに追い討ちをかけるように、1884年に台風が襲い、港は壊滅的な打撃を受け、これによって、このビッグプロジェクトは幻に終わってしまう。

 今から400年以上も前に政宗が藩財政を富ませるために発案し、整備を進めた水運ネットワーク構想は、明治時代に入って利通によってより壮大な構想として受け継がれたかに見えたが、時流はそれを許さなかった。野蒜築港の失敗は、以後の東北地方開発にも大きな影響を及ぼすこととなった。

 しかし、二人が描いた夢の跡は、今も貞山運河、東名運河、北上運河と連なる総延長約46kmの日本一長い運河として残り、往時の面影を私たちに伝えている。


貞山堀は物流だけでなく、小船の係留場所、そして市民の憩いの場として暮らしとともに歴史を歩んできた
 
物流交通から市民の憩いの場へ


貞山堀とほぼ並行して走る仙台東部道路の仙台若林JC付近。この道を上方に進むと仙台市街に至る。太平洋沿岸沿いに石巻方面から仙台市、名取市、岩沼市をつなぐ物流の要・仙台東部道路は、さしずめ現代の貞山堀と言えるかもしれない

 貞山運河、東名運河、北上運河がほぼ今の姿に完成した当時は小型蒸気船も航行したが、その後今日まで、これらの運河が物流交通の主役となることはなかった。現在は、松林をわたる風の音と太平洋の潮騒が聞こえる静かな市民の憩いの場となっている。ハゼ釣り、サイクリング、散歩など、多くの市民がこの水辺空間に集ってくる。小型漁船やプレジャーボートの係留場所、大学生の漕艇コースなどとしても利用されている。

 飛行機から仙台の街を眺めると、現在の物流交通の主役である自動車道路が縦横に走っているのが分かる。阿武隈川河口の亘理から北上川河口の石巻まで仙台東部道路が伸びている。その仙台東部道路に並行するように、藩政時代の仙台藩の物流を支えた貞山運河が今もひっそりと横たわっている。


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