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更新日:2024年1月22日

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説明板のご案内

 文化財課では、かつて、そこがどのような場所であったのか、多くの皆さまにお知らせし、思いをはせていただくよう、指定文化財や歴史的に重要な施設の跡地等に説明板や標柱、辻標を設置しています。

※辻標とは、城下町仙台の由緒ある町名や通り名を後世に伝えていくため、市制施行八十八周年記念事業として設置されたもので「由緒ある町名、通名と八十八辻選定委員会」が市民から公募した町名・通り名を選定、解説を付したものです。

せんだいくらしのマップ(外部サイトへリンク)

令和元年度

富沢館跡

設置場所

太白区富沢字館地内
仙台市富沢駅西土地区画整理事業地内2号公園
※公園は整備中のため供用が開始されておらず、立入は制限されています。道路側よりフェンス越しにご覧ください。

説明板について

大きさ:縦1.2メートル×横1.8メートル
内容:富沢館跡の説明

富沢館跡について

富沢館跡は、仙台平野で確認されている中世の城館のなかでも最大級のものです。区画整理事業以前の富沢館跡は、土塁の一部が残っており、航空写真や宅地を取り囲む水田の形を観察すると、二重、三重に巡らされた堀跡の形状を反映した形であることが分かるなど、保存状態の良いことで知られていました。
発掘調査では、中心部の周りを取り囲む大規模な堀跡が確認されましたが、土塁は、富沢館跡に関する遺構で唯一目にすることができるものであることから、保存に向けた協議を行い、土塁を含む館跡の一部を公園として保存しています。
説明板の後方にある砂に覆われた高まりが保存された土塁です。
富沢館跡 案内板富沢館跡 地図

 

 

 

 

 

 

 

 

平成30年度

林子平ゆかりの地

設置場所

若林区表柴田町(仙台第一高等学校南側)
※詳細はお問い合わせください

説明板について

大きさ:縦0.75メートル×横1.0メートル
内容:林子平ゆかりの地の説明と関連資料写真

林子平ゆかりの地について

林子平(はやししへい、1738年~1793年)は、姉が仙台藩主の側室となり、兄・林嘉善(はやしかぜん)が仙台藩士となった縁で、仙台に居住しました。仙台藩の学者と親交を結びながら江戸や長崎へ遊学し、そこで得た見聞をもとに『三国通覧図説(さんごくつうらんずせつ)』・『海国兵談(かいこくへいだん)』といった書物を著しました。1791年、幕府によってこれらの書物が規制されると、子平自身も兄の屋敷での謹慎を命じられました。説明板は、この屋敷跡付近に設置するものです。

林子平

平成29年度

仙台城大手門跡説明板

設置場所

仙台城大手門跡脇櫓前

説明板について

大きさ:縦0.8メートル×横1.6メートル
内容:仙台城大手門跡の説明と古写真

仙台城大手門について

仙台城の大手門は桁行(けたゆき:横幅)約19.7メートル、梁間(はりま:奥行)約6.8メートル、高さ約12.5メートルもある全国的にも最大級の城門でした。金箔押しの飾り金具を用いた豪壮な大手門は戦前には脇櫓とともに国宝に指定されていましたが、昭和20年(1945年)の仙台空襲で惜しくも焼失しました。

大手門遠景大手門案内板

仙台藩奉行所跡説明板

設置場所

仙台市二日町分庁舎前、仙台国際ホテル・SS30前

説明板について

大きさ:縦0.6メートル×横1.0メートル
内容:仙台藩奉行所跡の説明と古地図・図版

仙台藩の奉行所について

仙台城下の町人町(ちょうにんまち)の行政全般を預かる町奉行は、城下町建設期より置かれ、当初は地域割りごとに奉行がいましたが、2人の奉行の月番(つきばん)制となりました。恒常的な施設としての「町奉行所」は設けられず、町奉行を務める藩士の屋敷で事務を行う役宅(やくたく)制が採られていたましたが、嘉永(かえい)年間(1848~55)以降は、仙台城下を南と北に分けてそれぞれに町奉行所が設置されたといいます。仙台市二日町分庁舎前には北の町奉行所が、仙台国際ホテル・SS30前には南の町奉行所がありました。

町奉行所

仙台藩の藩校養賢堂跡説明板

設置場所

勾当台公園林子平像南側

説明板について

大きさ:縦0.9メートル×横1.3メートル
内容:藩校養賢堂跡の説明と平面図、講堂の写真など

養賢堂(ようけんどう)について

仙台藩の学問所として、元文元年(1736年)、5代藩主伊達吉村によって北三番丁と細横丁の西南角に設置され、宝暦10年(1760年)に7代藩主伊達重村が城下の中心部である勾当台(現宮城県庁所在地)に移転させました。安永元年(1772年)に「養賢堂」と名付けられました。
文化6年(1809年)に藩の儒学者、大槻平泉(おおつき・へいせん)が学頭(校長)に就任し発展、儒学や蘭学、兵学などを学ぶ、国内有数の規模を誇る藩校となりました。
威容を誇った講堂は、明治維新後は宮城県庁として使われましたが、昭和20年(1645年)の仙台空襲で惜しくも焼失しました。
養賢堂遠景養賢堂案内板

郡山遺跡説明板 

設置場所

仙台市太白区郡山3丁目(郡山中学校より北に200m)

説明板について

大きさ:縦1.2メートル×横1.6メートル
内容:郡山遺跡関連周辺遺跡の紹介

郡山遺跡について

郡山遺跡は1300年前の飛鳥~奈良時代(7世紀後半から8世紀初め)にかけての官衙(役所)跡です。郡山遺跡はI期官衙が造られ、その後I期官衙を壊して同じ場所にII期官衙へと造り替えられています。郡山遺跡は、規模の大きさや施設の構成に加え、営まれた年代から見て、I期官衙は当初陸奥国における城柵として造られ、後のII期官衙は多賀城の前身施設となる陸奥国の国府として営まれたと考えられます。

郡山案内板

郡山遠景

お問い合わせ

教育局文化財課

仙台市青葉区上杉1-5-12 上杉分庁舎10階

電話番号:022-214-8892

ファクス:022-214-8399