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更新日:2016年9月20日

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景観シンポジウム2011トークセッション

 トークセッション「景観から風景へ」-躍動するストリート景観を目指して-

シンポジウム会場
コーディネーター
涌井史郎(東京都市大学教授)
パネリスト
石田秀輝(東北大学大学院教授)
宮原博通(地域環境デザイン研究所所長)
米竹 隆(「定禅寺通街づくり協議会」常任幹事事務局長)
柳生聡子(フリーアナウンサー)

 

市民目線で作り上げた定禅寺通の景観

涌井史郎さん涌井
どうも涌井でございます。今日のテーマは「景観から風景へ」ということになっているのですが、先ほど仙台市の方にもご紹介いただいたように、私は常に景観10年、風景100年、風土1000年という言い方をしております。
それというのも、景観の「景」という字を分解して考えていただきたいのですが、「景」という字は「京」、つまり都の上に日が昇るということであります。すなわち、その都市や街が輝くありさま。それをなぜ「観」という字を使ったかといえば、実は心で受け止める、すなわち「観ずる」ということであります。したがって本来の景観というのは、建物の姿だとかデザインだとか、そうしたことではなくて、実は心にその光輝くありさまがどう映るのか。これが実は本来の景観の意味だと私は思っているわけですね。
そしてもうひとつ「風景へ」という話なのですが、日本人は「風(ふう)」という実に巧みな言葉を発見したと思います。どういうことかといいますと、「風(ふう)」というのは姿かたちがありません。しかしどうやらみんなで合意ができるもの、みんなでそうだねって思える共通のイメージ。これには「風(ふう)」という言葉をよく使います。たとえば味。味はなかなか解説がしきれないのですけど、そこに「風(ふう)」という言葉をつけると「風味」という言葉になりますし、手触りに「風(ふう)」をつけますと「風合い」。あるいは会社や組織に関して「風(ふう)」をつけますと、「社風とか気風」。ひとつひとつの具体的な物理的な景観的要素というものが時間をかけるにつれてみんなで共有でき、それがひとつの「なんとなくそうだね」と思えるイメージになってまいりますと、そこに景観を、そしてその風景が蓄積されて、ある独特の伝統や文化というものになって、やがてこれが風土ということになる。なんと我々人間の中にもその遺伝子の中に組み込まれて、その風土性というものを非常に体言する人格ができたりする。たとえば東北人だから、関東人だから、関西人だからというのは、まさにそれに相当すると理解してもよろしいんじゃないでしょうか。
そういうことを考えた時に、今日の米竹さんのお話がものすごく魅力的だったんですね。それは何かというと、まずは市民の目線が大事だと。景観計画とか都市計画というのは、ともすれば上から目線ですよね。それをまさに市民の目線で、しかも常に最後の言葉が素晴らしかったんですけど、「街は生きている」。本当にそうだと思います。街は生きているわけですから、それを飽きずにしかも非常にパッションのやりとりで街が生き続けることに対して、力を尽くしておられる姿というのは、なるほど、これが仙台の街を美しくしている一番大きな原点なんだなと。おそらく定禅寺通だけでなしに、あるいは先ほどのご紹介の範囲で出たというのでなしに、ひょっとすると米竹さんの気持ちというものは、仙台市民全体が共有しているものかもしれない。こんな感じが致しました。
京都に参りますと、町式目というのがあります。これは室町時代からあったもので、なぜこれがあったかというと、町衆たちが自分たちの外部の景観、すなわち街並みの景観について全部、決まりごとをつくっているんですね。たとえば軒の出方、高さ、面格子の幅、さらには暖簾の大きさ、これを全部、町式目というもので決めているわけです。それこそまさに祇園祭に。応仁の乱があろうが何があろうが、幕府の時の権力が代ろうが、町衆が自分たちの街だという誇りに満ちた、そういうひとつの景観形成ができあがって、それが今日にまで繋がっている。
私は米竹さんの話の中に何が浮かんできたかといいますと、仙台は先ほど3つの欠かせないものがあるということを、三位一体の他にもおっしゃったんですけど、米竹さんが「街づくり」と「街並みづくり」と「環境づくり」だとおっしゃったんですが、実はこの中に欠けているものが1つあるんですよね。それが米竹さんの口からは、「欠けている」ということでは語られなかった。実は他の街が苦労しているのは「人づくり」なんですね。人づくりがなかったら、この3つは輝いていかない。しかしこの街は幸いにして米竹さんに代表されるような素晴らしい仙台市民の方々がいて、それがゆえに本当は4つの○○づくりがなくてはならないのに、3つで事済んでいる。これは素晴らしいことだ、というふうに私は感動して話を伺いました。

Part1.話題提供を受けて-人と通りの関わり方-

涌井
これからのセッションをどんなふうに進めていこうか考えているんですけども、まずは今日の一番の中心、通り。
戦後我々は産業革命の延長線上で、本当は街並みとか通りとか、あるいは道という言葉をみんな「道路」という言葉に変えてしまいました。そしてA点からB点まで、直線的に結ばれるものが道路だというふうに考えてきて、そこから歴史や文化や伝統や、そういうものをみんなくっついてしまっているんですね。とにかく便利で合理的にA点からB点まで行くものを設えだと考えてきた。道普請という言葉もございますように、道路というのはみんなのもの。
奈良市の奈良町というところに行きますと、普通は街の境界というのは、道路や川が境界になっているケースが多いのですが、奈良町は道がコミュニティのど真ん中、自分たちの街のど真ん中にすえているんですね。それがある種のコミュニティの象徴になっている。そういうこともありますので、まず道というもの、通りと人の関わりということで1クール、いろいろお話をしていただこうと思っております。それからそういう基盤をもとに、二順目はそういうものが財産としてあるのですから、仙台の魅力を高めるためにどうしたらいいのかについて、ご提言をいただく。そして最後は今後の仙台の目指すべき景観戦略は、どんな方策をとったらいいのかということをみなさんと一緒になって議論をしていきたいと思います。これは壇上からの一方的なメッセージの発信ではなしに、できればそれぞれについて会場の皆さんからもご発言をいただければいいなというふうに考えております。
それではまず最初に宮原さん。宮原先生の存在が定禅寺通の発展には欠くことができなかったとご紹介もありましたので、ハードの面からどんなお考えがあるのだろうと、通りと人の関わりについてお話をいただければと思います。

市民を巻き込む実験が、都市の未来を切り拓いてゆく

宮原博通さん宮原
通りと人との関わりということで、この定禅寺通の歴史に欠かせないものとして、二番丁通との交差点の角にあります商業施設の141という存在があろうかと思うのです。仙台市がこの141の市街地再開発の基本計画をつくりましたのは、今から38年前の昭和48年です。基本計画作成後にはオイルショックとかいろいろありまして、オープンまでに13年くらいかかりました。オープンしてからは22年が経ちました。今は仙台三越百貨店に変わりました。
この定禅寺通の歴史の中でこの141の存在との関わりを模索した時に、ひとつ言えると思うのは、市街地再開発を含めてひとつの商業施設をつくるだけではない。定禅寺通の将来の姿を描いてゆくきっかけに、そしてまた今の買い物公園の入り口として商業活性化に向けて、どのような役割をしていったらいいだろうか。そのようなことを踏まえ、面的に捉えた中で計画がなされて行ったわけです。この市街地再開発事業を通して定禅寺通の未来を見ていく時に、都市の未来を切り拓いていくには、市民を巻き込む実験があっていいのではないか。そんなふうに思います。米竹さんもそうですし、141の関係者や当時の仙台市の方たちも、いろいろな方が関わったのが光のページェントであり、ジャズフェスであり、様々なイベントに展開していったわけです。
当時はこの定禅寺通のケヤキもまだ細かった。そういった中で141の市街地再開発がありました。当時は(市街地再開発は)十数年かかるというのがざらで、オープンまでには大変な紆余曲折ありました。そういった事業は一生懸命大人が汗をかいて作りあげるけれども、それをどうしたら次の世代に大人のかいた汗を、きちんと伝えられるのだろう。それがひいては街の生きざま、ひとつの姿になるのではないか。そんなふうに思い、それを記録映画にしました。タイトルがキザっぽくなりますけど、「緑のまちに愛の詩(うた)がきこえる」という映画を作って、次の世代に伝えていく。そして私自身もその映画を学生に見せて、仙台の復興と未来に向けてのメッセージをきちんと伝えていこうと。そんなことで映画を作ったりしたわけです。次の世代に伝えていくということを考えて、いろいろな街づくり、メッセージを発信したり、イベントを行ったりしながらそういうものを作っていく。何よりも次の世代にきちんと伝える。まちづくりにはこれが必要でないかなと、そんなふうにも思います。
この定禅寺通では米竹さん方の努力もあり、仙台市の関係部署、商工会議所など、いろいろな分野の方がみんなで一丸となって、たとえば定禅寺通の片側の車線の車を止めてそこを客席にしよう、真ん中のグリーンベルトのところはひとつのステージにしていこうと。そんな動きでいろいろな実験をやる時に、定禅寺通の真ん中でオープンカフェをやってお茶を飲めたり、アートを愛でたり、いろんなことをする。そういうことを試みたのですが、私は都市と通りと人の関わりにしても、いろんなところにそういったオープンカフェが広がれば良いし、通りと人との関わりを生み出す機会を実験という形でおおいにできれば良いと思っています。いろいろな法手続きもありますけど、実験ということをもっともっとやって、そこからメッセージを地域社会に発信していけばいいのではないかと、強く感じているところでございます。

涌井
ありがとうございました。図らずも141という市街地再開発が13年もかかった。そのプロセスの中で、単にビルや商業施設をつくるということではなくて、そのプロセスの中で人と関わることによって仙台の街を先導的に実験していく、こういうお話だったわけですね。
米竹さん、今のお話と先ほどの話を絡めながら、ジャズフェスにしても光のページェントにしても、大変な実験ですよね。それを進めていく上で、障害になったことは何かありましたでしょうか。

お金の問題は残るが、何よりも皆が楽しんでやらないと継続しない

米竹
米竹隆さん
催し物での障害となるのは、「人と物と金」。この3原則を満たさないと、なかなか実現できない。ということで、最終的にはお金の問題が残ります。
お金がなければ何もできない。しかしそれでは何も進まないので、それはそれなりに社会人が受け持っていこう。企画はやはり若い人の感性でもってやっていこう。そうやって分離していこうという考えを持ってやってきていまして、光のページェントは25年、ジャズフェスは20年継続してやっておりますけども、あまり障害になったということはございません。
ただ我々はどちらもボランティア組織でやっているものですから、その基本中の基本というのが参加している人が楽しくなければならない、そしてそれを見に来る人も楽しくなければならない。要するにみんなが楽しんでやっていかなければ、何も意味がない。苦しみながらやるのはまた別の世界で仕事なりなんなりあるでしょうけど、無給でやっていくというのに苦しむ必要はないのではないかというのが基本です。
先生からのご質問の答えになるかどうかはわからないですが、ジャズフェスにしてもページェントにしても、守るべきことは商業主義には走らない。そしてお互いに自分たちのお祭りとして自分たちで消化していく。そういうふうな精神でやっていこうという気持ちはこれからも継続していってもらいたいなとその一念だけでございます。

涌井
いやあ、すごい答えですね。先ほど市長が風格、品格、ひょっとするとこれは城下町の書院様式の中から生まれてきた気風なんじゃないかとおしゃってましたけど、まさに今、それを感じるんですよね。
楽しむことだと。ボランティアでやっているんだから、決して苦しむ必要はない。ただこれはなかなか難しいことで、楽しさっていうものは人によってそれぞれ違うもので、それを1つに合わせていく合わせ技は大変だったんだろうなという気がします。
柳生さんはいろんなイベントなどを通じて、そういうものに参加されるケースというのは非常に多いと思うのですけど、どちらかというと多くのイベントには前段に苦しみがあって、一瞬で終わってなかなか長続きしないというのがあるじゃないですか。どうですか、そういったものをリポートされたりしていて。

定禅寺通は、「安全」「癒し」「発見」のある魅力ある道(通り)

柳生
今は子育てをしておりますので、子供と一緒に楽しむという立場で参加させていただいていますけれども、仙台に16年いて、前半の8年は地元のテレビ局の主にニュース制作に関わっておりまして、取材者という立場でいろんなイベントを取材させていただいていました。きれいな部分、その結果しか我々取材者は目にすることはないのですけど、やはり今日の米竹さんのお話や誕生の秘話も伺って、こんなにご苦労があったのだなあと心底感動しながら聞いておりました。
私にとって定禅寺通というのは、すごく友人や知人に対して誇れる場所なんですね。柳生聡子さん
魅力ある道ってどんなものかなと考えてみたのですが、3つほど浮かびました。ひとつは「安全」でなければならないと思います。ベビーカーを引いているとちょっとした段差とかにベビーカーの前輪って簡単にあたってしまうんです。そこで子どもが衝撃を受けたり、信号を渡って次の歩道に乗っかろうとすると、ガツンとぶつかったりする場所が仙台市内にもまだまだあります。あとは車道と歩道がしっかり分かれている、子どもに見せたくないような広告やチラシがない。そういった意味での安全が大事だと思います。
そして「癒し」があるという部分も魅力のひとつかなと思います。緑があったり、ちょっと日差しを遮れる木陰やカフェがあったりするとほっとできます。あと個人的にはお花にすごく癒されまして、何年か前に仙台駅前のペデストリアンデッキとか青葉通のガス灯に、ハンギングのお花が飾られるようになりました。たぶんピンクと白のサフィニアだと思うのですが、垂れ下がるタイプのお花で、それが風に揺れたりすると本当にきれいで。そういったものにも私はすごく癒されるんです。サフィニアって手入れがすごく大変なお花で、丁寧に花がら摘みしたり、ピンチングしたりしないといけないので、きっと手入れされている方のご苦労もあると思うのですが、そういった工夫で癒されたりする。そういう癒しのある道が第2点。
また3番目としては、「発見」がある道が魅力的だと思うんです。次の機会に行ったら新しい発見や楽しさがある道。ちょっと横道に入ると、こんな変わった店があったなとか、カフェがあったなとか、そういった発見がある道というのがすごくいいなと思うのです。(その点)定禅寺通って今言った3点を本当にほぼパーフェクトな感じで満たしている道だと思うんですね。きちんと車道も分離されていますし、豊かなケヤキがあって、本当にくつろげる場所でもあり、そしてこれは定禅寺通の特性だと思うのですが、グリーンベルトのところに彫刻があったり、メディアテークという芸術的な建物があったり、何かアートな雰囲気も感じられるとあって、すごく大好きな道です。こういう場所がもっともっと増えていったらいいなと思っています。

涌井
たしかにね。この3つの要素っていうのは、道路から道へ進化していく上で欠かせないですね。米竹さんでも宮原さんでも結構なんですけど、この定禅寺通の革命みたいなものとか、国のしくみを変えたのはご存じでいらっしゃいますか。

道路構造令の改正にも影響を与えた定禅寺通のシンボルロード事業の事例

米竹
先ほどの説明の時にも重大なことを落としちゃったのですが、シンボルロード事業のもうひとつの大きな特徴が、真ん中にケヤキが2本植えられている緑道、これは平成11年のシンボルロード事業が始まるまでは地目は道路として登録されていたんです。それがシンボルロード事業を平成13年に完成した時点で、公園に地目が変わったんです。
要するにそれまでは道路にグリーンベルトという道路があって、また車道もあり、イベントなどをする時に警察に通行止めの許認可をお願いに行くと、決まって「歩道は人が歩くためにつくった道路だ。車道は車が通るためにつくった道路だ」と言われるわけです。そこで安全が損なわれた場合には、我々警察としても非常に責任にかかわる問題だと。絶対反対はしないのだけど、いつもそれは言われていました。
しかし現在の緑道というのは公園になったので、管轄は仙台市の青葉区役所の公園課になっております。定禅寺通というのは市道なのですけど、車道も公園もみなさんの財産なんですね。行政はそれを秩序、管理等々で守っているわけですが、仙台市さんはそこが勇気のあるところだったんでしょうね。今までの道路を公園化して、市民に開放して、いわゆる利用、活用、活性化させようじゃないか、そんな非常に全国では稀に見る、車道の中に公園がある道路になった。これは珍しいのだと思います。
今日おいでになったみなさんにとっても、申請のハードルは非常に低くなっております。申請書1枚書くだけで、あの定禅寺通の真ん中が使えます。もちろん商業主義で使う場合、あるいは政治上の問題や宗教の問題で制約を受けることはありますが、たとえば自分の作品を発表したりとか、何かをしたりとかいうのは非常にハードルが低いですから、ぜひ自分の庭を使うような感覚で使っていただきたい。どうぞお使いくださいと、行政側もそう思っております。そのあたりで市民と行政が一致したことからも、誇りに思っていいゾーンだと感じております。

宮原
ひと言だけすみません。今、米竹さんがおっしゃったとおりなんですが、グリーンベルトが公園として、公園だからこそオープンカフェなどの実験ができたわけです。その定禅寺通の車道の片側をストップするといった時に、申請した人に対して警察が一番に求めるものは、もしどこかで災害が起こったり、火災が起こったり、緊急用の車両が通行する時にはどうしたらいいか。また片側を止めた時に、他の道路で渋滞を引き起こしてしまうんじゃないかとか、そういうことが見えないうちは駄目なんですよ。
それを当時、仙台市の道路関係の部署の方たちは、ものすごい熱意と努力をされて、いろんなシミュレーションをやったんですよね。いかに片側を止めても他の道路に影響がないというのを、徹底してシミュレーションして。それで最後は警察も「わかった!」と許可してくださったという経緯があります。

涌井
先ほども申し上げたように、鳥の目で上から下へずっと抜けていくというのが、今までの街づくりや都市計画だったのですけど、そうじゃなくて、こういうようにみんなの気持ちがひとつになって、私(わたくし)にこだわらない。私(わたくし)と公(おおやけ)の間の共、これを大切にしていく。自分たちも責任を負う。こういう街をつくっていきたいというベクトルが、すごく民主化された街だと思うんですね。気がつかないうちにそういうことを見事に実現されている。
中央で道路構造令の改正というのがあって、当時大石さんというなかなか優れた道路局長がいらしたのですが、私はその方と相談しながら、仙台のオープンカフェの実例を入れて、歩道を含め、道路の形状についてもある程度自由でいいと、そういうところまで道路構造令の改正に踏み込んだんですね。やっぱり仙台の実例があったから。そしてこれがまた景観法に引き継がれ、要するにオープンカフェなどが積極的に事例として出てくる。本当にひとつの小さな動きが実は非常にいいことだとなると、柔軟に国全体で共有できる。
昔都市計画法の中で、兼用工作物制度というのがあって、道路と公園が二重になってどっちでも使えるよっていうやり方はあったんですけど、使おうとしてなかった。それは市民の側にそれだけの意欲がなかった。それが見事にそういうふうになっていったと、私はこんなふうに考えています。
これからぜひ石田先生にお話ししていただきたいんですけど、我々の地球環境の専門の側からいうと、ティッピングポイント(TippingPoint)といって、地球の臨界点・閾値がだいたい見えてきたんですね。今までの我々の発想というのは、坂の上の雲なんです。つまりどんどん上り坂の向こうに、またもっともっと上がっていこう。ところがこれはもうダメですね。私はNHKを時代遅れだと思っているんです。坂本竜馬、好きですか。でも今は、坂の下の泥沼に向かって我々はある。つまりそうなると限界点が見えてきたのだから、我々はどうしたらいいのか。こういう発想を持つ必要があるんですね。バックキャスティング、逆説的な発想を持つ。そうすると豊かさを求めたり、広げたりする時代はもう終わったと思うんですね。
我々が本当に幸せになるには、街と共に豊かさを深めていく。こういう時代の転換をしたんじゃないか。その時に本当に自分が住んでいる所、自分が生まれた所、自分が死んでいく所、これがどれほど大切かというのを考えていかないといけない。大げさなようですけども、まさにそんな時代が始まったんじゃないかと思います。いつも石田先生はそういうことを考えながら、科学技術の力でどう解決していこうかという提案をされているわけですけども、先生、そのあたりも含めてひとつよろしくお願い致します。

道からコミュニティ、コミュニケーショが生まれる日本人独自の自然観

石田
今のお話を含めて少し、通りと人ということでお話をしますと、米竹さんの「街は生きている」は、石田秀輝さん僕も非常に感動した言葉なんですけども、おそらくその「生きている」というのは、生かし生かされるなんですね。そのエネルギーがおそらく、エンターテインメントとおっしゃいましたけど、遊びの心。遊びというのは、楽しいだけでない。悲しい時もつらい時もあるんですけども、それをあえて江戸っ子風に「てやんでい」っていうふうにおやりになったと思うのですが、そういうことから「生きている」ということ、それをエンターテインメントというドライビングフォース(driving force:推進力)でつくり上げてきたという素晴らしさを感じたんですね。
ぼくは豊かであることを捨てる必要はない。ただし大事なことは、人間らしく生きるためには豊かさが必要で、でも今はそれがちょっと逆で、豊かでなければ人間らしく生きられない。人間らしく生きるには豊かさが必要であるということになると、人間が主役なんです。豊かでなければ人間らしく生きられないというと、たとえば道路の整備なんかでは、ここにはエレベーターがあるべきであると。そうならなければ人間らしく生きられないと思ってきた。そこに自然に対して我々が作り上げた、大きな過ちなのかもしれません。
今日米竹さんは、シンボルロードが緑の文化の回廊だとおっしゃいました。まさにおそらく定禅寺通のこの素晴らしいアウトプット(成果)、その成功の陰には、あるいは陰ではなく主役かもしれません、自然という概念を我々がどのように持っているかだと思うんですね。
その自然ということを少しだけお話しますと、実は涌井先生が最初におっしゃいましたけど、道路というのは、ヨーロッパの道路、これは紀元前23世紀くらいまでさかのぼって、ギルガメッシュ叙事詩(古代メソポタミアの文学作品)が書かれた時代までさかのぼっても、おそらくみなさんご存じのローマ帝国を見てもおわかりかと思いますが、道路はまっすぐなんです。それはなぜかというと、経済のためと戦争のためにある。だから道はまっすぐでいかに短時間に目的の所に行くかという概念。もっと失礼な言い方をすると、ヨーロッパというキリスト教的思考というのは、少し独断的ではありますが、わかりやすく言えば、そういう思考をイメージしていただくと、自然との決別、人間が自然を奴隷のように支配するっていう概念が1つの大きな柱になっている。だから街をつくっても、まずは自然との結界といって城壁をつくる。その中で人は街をつくる。実は18世紀に起こった産業革命というのも、自然との決別で産業革命が成功している。その自然との決別という産業革命の結果得られた科学技術を、我々が今ある意味信奉して、その結果、地球環境破壊という大きな問題を起こしているとあながち言えないことではない。
その一方で、日本の自然というのをどういうふうに我々は捉えたかというと、日本の場合は自然との決別というのはとくにないんです。それどころか、自然と決別なんかしていたら、我々は死んじゃう。何故かっていうと、日本は地面が揺れる国。あるいは緑が人間を襲ってくる国。これは日本にいれば何も感じないですけど、欧米に住んだりすると、とにかく草を毎日抜かないといけないという庭はない。毎日のように草が生えてくる、どんどん自然が豊かになっていく。だから我々の家というのは、昔の里山だけで言いますけど、家があって、庭があって、村があって、里山があって、奥山があって、さらに岳がある。そして奥山は神聖な神が住まう所で、我々は亡くなって33年経ったら岳から天に昇っていくんだと。そして里山から我々の糧を得るんだと。それはなぜかというと、緑があまりに強い。だから神聖な場所では緑の結界をつくる。神社・仏閣では玉石を敷いて、緑との境界を明確にするわけです。そういうふうにしてせめぎ合いながら共生してきたのが、我々だと思うんですよね。
そういう意味でいくと日本の街の道路、通りというのは、まさに欧米型の直線の通りとはまったく概念を異にしているのではないのか。
そこは涌井先生のご専門なのですけど、僕の聞きかじりの話からすると、たとえば江戸の街。肩が触れ合うくらいの通り、実はその通りの中からコミュニティ、コミュニケーションが生まれる。そしてその通りというのはまっすぐではなく曲がりくねっている。その曲がりくねり、人間っていうのはネジがあると緩めたくなるよね。小径があると行きたくなる。「小径」の「径」は半径の「径」。要するに曲がっているんです。そういうふうなところに行きたくなるっていうことを巧みに使ったのかはどうかわかりませんが、1ヘクタールに800人も住んでいた時代ですから、その道は当然たくさんはつくれない。だけども肩が触れ合うような道でお互いにあいさつしたり、相手を気遣ったりしないと行き交いができない。そういうところからコミュニティ、コミュニケーションが生まれる。ちょっとした辻々では大道芸があり、あるいは隠れたようなところに小さなお地蔵さんがあり、そういう文化を僕は重ね合いの文化だと思っています。そういうものが我々の通りの概念で、欧米とはまったく違う自然観を持った通りの概念をつくっているのではないだろうか。
今日、米竹さんのシンボルロードという話をしても、そういう通りの概念が当たり前のように伏線として敷かれていて、そこにコミュニティ、コミュニケーション、エンターテインメントという言葉がかぶせあっている。江戸がいいとか悪いと言っているのではなくて、まさに江戸の時代では間違いなく粋という文化が生まれ、そして相手を慕う、譲り合う、相手を尊敬し合う、そういうものを道がつくったというのもあるわけです。そしてこの定禅寺通というところで、そんな考え方が生まれたということがものすごく大きな価値があると思います。
そして最初の質問に戻りますと、我々が人間らしく生きるためには豊かでなければいけない。豊かさを追えばいいんです。ただその豊かさというのはエンターテインメントであり、物欲的なものではない。我々がお互いに顔を見合わせればちょいと頭を下げる、花を見るとちょっと笑顔になるとか、小さな子どもたちがワイワイニコニコして遊んでいる、実はそういう欲の豊かさというのが、今改めて問われているのではないかと、今日のお話を聞きながら感じました。

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 Part.2 仙台の魅力を高めるためには

街と自然が一体となった仙台の景観のスケール観

涌井シンポジウム会場
ありがとうございました。「旅は脇道から始まる」という言葉がありますけど、まさにそうですよね。まっすぐ行くのはどうかな、やっぱり曲がったほうがいいな、ちょっと1本脇道に入る時にはドキドキする。これが街の魅力を高めると思います。
「王様の道はロバの道」という論争がありました。みなさんベルサイユ宮殿に行っていただくとわかるのですが、神様は上から見ている、あれは神様のための庭だから、延々と十何キロもまっすぐなまま続くんですね。歩いていったらくたびれちゃうわけですよ。しかし王様はどうやって行ったかというと、馬車に乗ってダーッと走っていく。そうするとその景観はそれなりによく見える。つまり上から、神の目線から見た庭園というのがベルサイユ宮殿なのですね。ところがそんなところにいるのはいやなものだから、実は王様はボスケという森の中にくねくね曲がった小径をたくさんつくるわけですね。王様の浮気に悩んでいるオーストリア、ハンガリー帝国から来た王女様が、オーストリアの田舎の風景を作ってわざわざそこで癒していたんですね。
ところでみなさん、仙台にもそういう話があったのをご存じですか。
「仙台曲直論争」というのをご存じの方、ちょっと手を挙げてみてください。これは昭和25年、区画整理の時に仙台駅を動かすのか、動かさないのか。こういう議論があったんです。圧倒的多数は道路をまっすぐにして、仙台駅が真正面にあるべきだと言ったんですが、当時の国鉄は、国家が決めた駅をそんなことで動かせるのかと。議会は直線と言っていたんですけど、結果としては曲線。だから仙台にまっすぐ行ってないですね。これを「曲直論争」といいます。
実は「杜の都」というのがはじめて仙台の市民以外のところで語られたのは大正時代。それは伊達政宗の城下町のつくり方というのを解説する中に、「杜の都」という表現が出てきたといういわれがあるのですけど、なにせ最初からこの仙台は市民力によってできあがってきたということを言ってもいいと思いますね。先ほどのお話にもありましたように、定禅寺通の道幅は約50m、最初は道の片側にしかケヤキが植えられてなかったんですね。それがやがて両側になり、真ん中に入り、そしてそれも苗木を市民や議員の先生方がみんな一生懸命になって植えていきました。あの当時の道路は仙台砂漠といわれたそうですね。土ぼこりが舞ってどうしようもない。杜の都である以上はやっぱり緑が大事だと考えて、今日の見事なケヤキ並木も含め、先ほどの仙台市の景観計画も緑を基本にしてつくってきた。
広瀬川と周縁に繋がる山、いわば風水でいうと背景に山がある後山、前に海がある前水、実に見事な風水の結体というのを仙台は持っている。だから心が落ち着くわけですね。果てしなく見えないようなところは落ち着かないですから。なんとなく囲まれているから安心できる。その中にさらに緻密な緑がはめ込まれることによって、仙台の魅力が高まってきたし、なおかつそれはみんなの宝だと思って、市民はむちゃくちゃやらなかった。残念なことに、広瀬川のところに何本かむちゃくちゃがありますし、ものすごく暴力的な橋もかかっていないわけじゃない。それはこれから考えていけばいいことであって、そういう意味で仙台というのはものすごくスケール感を大事にしなくてはいけないなと。
みなさんご存じのとおり、日本で一番美しい農村風景を持っているところはどこかっていうと、上信越の地震でめちゃくちゃになっちゃった山越村ですね。あそこは人類学者や民俗学者から日本で一番美しい集落だって言われていた。ところが残念なことにその震災復興のあとに、なんとかハウスやら何やらという、いわばスケール感を無視した復興住宅がどんどん建って、結果として山越の景観というのはスケール感を失っちゃった。本当に箱庭のようにきれいに収まっていたのに、そこに定型的な建物が入ることによってスケール感を失ってしまう。
そういう意味では、仙台にとって緻密なスケール感が必要だという思いがあるのですけど、先ほど米竹さんが三位一体と言って、たとえ自分の私有の財産であり、憲法に保障されたものでも、今日のために、ある程度抑えていかないといけないのだ、こうおっしゃっていました。米竹さん、実際に抵抗は無かったのですか。たとえば街づくり協議会の中で、俺の財産なのだから勝手にしたっていいだろうと、こういう話はありませんでしたか。

米竹
「ない」といえば嘘ですし、「ある」といってもまた嘘かもしれない。非常に難しい質問でございます。でも結果を考えていけば、やはり「ない」というふうにお答えするのが妥当じゃないかなと思います。

涌井
街づくり協議会のみなさんが今日までの20数年間、結果としてそういう方向でもってきた。もしかしたら多少の陰影はあるかもしれないですけどね。宮原さん、市街地再開発計画のほうでは最初どうだったのですか。いわば、ある種の自主規制をしていこうじゃないかということについては。

宮原
そうですね。自主規制という中で、その頃敷地の扱い方は、空地をある程度とれば容積をプラスしてもらえるオマケがあったんですけど、やはりそういったことだけじゃなく、歩道を歩かれる方たちが四季折々の気候の中でやさしく包まれるような感じ、たとえば春には新緑を味わうのに誰でも振り向いてみたいですし、そういうちょっとしたことにも対応できる余裕を持った空間が必要だと思います。杓子定規で建ぺい率何割だからというよりは、通りと人というのはどのような係わり合いの余裕があったら一番快適か、そんなことを意識しながら敷地の使い方を考えていきたいですね。

涌井
柳生さん、仙台の魅力っていうのはなんですか。それを高めるにはどんなことをしたいですか。

自己主張し過ぎないオシャレ感のある仙台らしさの演出が必要

柳生
「魅力って何ですか」と聞かれてもいっぱいあるのですけど、私は就職がきっかけで仙台に住むことになったのですが、その前の大学時代、当時は東京の文京区に住んでいて、大学2年生の時に最初に仙台に降り立ったんです。友人との旅行で初めて仙台に来て、駅に降りた時に「なんてきれいな街なんだろう」と思ったのが最初の印象です。青葉通にもケヤキがあって、今は工事中で無いですけれど、吹いてくる風とか空気感というか、なにかわからないんですけど、すごくきれいな街だなって思いました。仙台の魅力は、「杜の都」であるというところが大きいと思います。当時の印象がまだ変わっていないわけは、仙台市としてもこれだけ多くの政策とか計画とか、ある意味、戦略的に街や緑を守ってきたのだなと思います。
さらに仙台の魅力を高めていくためには、まずはその良さを失わないでほしい。もう16年も住んでいると慣れてきちゃって、このきれいな街が当たり前のように思えてくるんですけど、実はすごいことなんですよね。たとえば青葉通をずっと進みまして、左手のほうに広瀬川や評定河原があって、瑞鳳殿に続く丘があるのですが、そこの丘陵地帯の渓谷美がすごく美しいのを皆さんご存じでしょうか。あの渓谷美とそこの森というのが経ヶ峯といいまして、政宗さんが昔、毎年初夏になるとそこにわざわざホトトギスの鳴き声を聞きに訪れていたんですね。そして偶然にも私は今そこに住んでいるのですが、本当にホトトギスの声が聞こえるんですよ。最初何かと思ったんですね、これがホトトギスなんだと。本当に鳥の楽園のような感じで、春先にはウグイスも鳴きます。そういった美しい自然が政宗さんの頃と同じように今もなお存在するということを、意外と知らない人も多いんじゃないかと思います。そういう既存のすごいお宝があるのですから、もっと色気出してアピールしたら、もっと魅力が高まっていくんじゃないかと。今、日本史ブームでしょ。歴女の皆さんがわざわざタクシーに乗って、ホトトギスの声を聞きに経ヶ峯まで行くんだそうです。そういうこともありますから、持っている資源をもっと前面に出してもいいんじゃないかなと考えています。
またぶれないためには、仙台らしさを考えることも大事だと思うんですね。市長が最初に書院文化とおっしゃいましたが、何か静かな、なんとなくオシャレというか、光のページェントにしてもジャズフェスにしても、わっと派手さはないですよね。ねぶたのような派手さはないし、大阪や福岡のお祭りのように躍動感はないんですけど、仙台は静かにゴージャスというか、主張しすぎない存在感というのがすごく親和性があると思うんですね。かつて伊達政宗さんやその家臣もさりげなくオシャレだったというように、そういったオシャレ感みたいなものを大事にしていくことで、仙台らしさを磨いていくのも大事なのかなと思います。

涌井
確かに仙台の特徴は何かなって考えますと、おっしゃるとおり自然と融けあっている。調和感ですね。それとローキー(low-Key)というか、要するに抑え気味、非常に仙台の魅力だなと思うのですけど、これが難しいんですよね。先ほど「躍動感がない」とおっしゃったけど、躍動感がない街となるとこれはまた非常に難しい。だから街は躍動感を求めますよね。

柳生
潜在的な躍動感って言ったらいいんでしょうかね。見た目の躍動ではなくて。

躍動感をどう作るかも必要

涌井
それをどうやって作っているのかということが、すごく大事だと思うんですよ。それを確かに定禅寺の場合には様々なイベントで躍動感を演出して、同じものが違って見えるようなそういうまなざしの視座っていうか、どこから見るのかという見方を変えていくスイッチングを上手にやられたと思うんです。
仙台にとって落ち着いていくのもすごく大事だけど、躍動感も必要だ。たとえば京都の人たちって、やたらと躍動感を欲しがるんですね。最初に欲しがってつくったのが、「本願寺の大ろうそく」とも言われる駅前の京都タワーなんですね。あれは本願寺の大ろうそくだっていう変な理屈をつけることで、なんとか納得できたような、できないような。今考えてみますと、京都駅も建築的にもすごく躍動感があると思うんですが、あれは京都ならではなんですよね。京都の方じゃないとあれを選択しなかったと思うんですよ。我々からすると「うーん…」って思っちゃうんだけど、京都人は意外と肯定的なんです。抑えこんでいくと、それをはね退けたいというのが人間の業のようなものですが、そういうことについて米竹さんいかがですか。

米竹
まさに今おっしゃったように、形に表れる躍動と心の中に潜む躍動と2つあるかもしれません。
東京エレクトロンホールや市民会館はだいぶ年数も経ち、建て替えようという話もございまして、ある音楽関係の方からもご相談を受けたんですが、たとえば東京エレクトロンホールを改装するとなった場合に、上質な演奏会や演劇を見た後に上質な余韻を楽しめるようにしたいと。これも十分、一番町四丁目とか国分町とか周りにいっぱい、その余韻を楽しめるところがあります。そういうふうな面で文化的な面でも、チケットを買って、見て、そこでおうちにまっすぐ帰るというのではなくて、街に残って上質な余韻を楽しむ。それも心の躍動じゃないかなあと思います。建て替えというのは非常にお金がかかることですし、面積の問題もありますので、そういうふうなことも私個人としては未来の定禅寺に望みたいなと思っております。

涌井
米竹さんには、もうプログラムができているんですな。それを実に戦略的に演出していくというのがすごいなあと感動しました。石田先生、本当に環境にやさしい街って、どんなものなんですかね。

ワクワクドキドキの躍動感は「自然や社会や人との繋がり」から

石田
難しいですよね。環境にやさしいというより、先ほど言った「心が豊かになる」ということがどういうことか、だと思うんですよね。
僕たちはワクワクドキドキすることと躍動感がイコールかどうかというのが、かなりの部分でオーバーラップするんでしょうけど。ワクワクドキドキする、そのための環境負荷をできる限り下げてやる。今まではワクワクドキドキするために、何かしら光ものだとか、ロボットだとか、そんなことをやっていたんですけど、実はさっき先生もおっしゃったバックキャスト(backcast:将来どうなっているべきなのかを先に考え、そこから今に逆流して考えて、当面何をするべきかを発見する方法)で潜在的意識を調べると、それに対してあんまりワクワクドキドキしてないんですよ。むしろ社会と一体になれることだとか自然だとか、楽しみだとかコミュニケーションだとか、そういうものにワクワクドキドキしている。それならインターネットやEメールなども社会と一体になれるじゃないかと思うけど、実はそうじゃない。繋がりっていうのをものすごく強く求めていることが、最近の僕たちの調査で明解なんです。やっぱり人間というのは、僕たちのDNAというのは、そんなに簡単に変わるものじゃない。やっぱりワクワクドキドキするような楽しいエンターテインメントに触れたり、あるいは自然やいろんなものと接したり、そういうところからうれしさや満足感が生まれるんです。
その環境にやさしいとか環境配慮型の街というのは、それをいかに人工的なものではなく、限りなく自然なものにするか。そして一番大事なのは、人間各々がそれに参加していくということ。たとえばバックキャストで街だとか暮らしとかを見てくると、車のいらない街をつくろうというのは、ぽっと出てくる。あるいは人間のことを一生懸命に考えたら、くねくねした道がいっぱい増えていきましたみたいなことが出てくる。もちろん車のいらない街が最高なんじゃなく、車のいらない街っていうのはみんなが受け止めたい街の形なんですよね。その中で、どうしても必要な移動媒体って何でしょうというのを一緒に考える。あるいは道がちょっとくねくねしている、ちょっと曲がったところに仕掛けがある。そういうことで、人間の精神欲を満足させながらワクワクドキドキさせる。そんな街っていうのがきっと必要だと思うんですね。

涌井
ありがとうございます。先ほど申し上げたように、カルチャーというのはつまりカルチベイト。心を耕していく、深めていくということが、ワクワクドキドキなのかなあと私も思うんですね。
たとえばニューヨークのことを考えてみると、ニューヨークの街って碁盤ですよね。ところが1本だけ斜めに入っている道があるんですよ。これがブロードウェイ。実はこれ、インディアントレイル(IndianTrail:獣道のような真っ直ぐでない道の意)なんですよ。ニューヨークのサブカルチャーがどこに集まっているかというと、不思議なことにこの斜めのところにくっついていたんですね。意外とまっすぐのところにはくっつかないんだけど、ぐにゅぐにゅしているとくっつく。
私は昔、ハウステンボスで経験したんですけど、ものすごいお客さんが来て、もう通りが「押すな押すな」なんですね。でも売上はぜんぜん上がらないんです。どうしてかというと、前に行くことばかり考えるから。ある程度、空いている時のほうが売上が上がるんですね。どうしてかというと、横に入っていこうという時間的ゆとりと気持ちのゆとりがあるから。そうすると滞在時間が長くなって、売上が上がっていく。こういう不思議な現象があるんですよね。
だからそういう面では、いろんな物語があったり、そこに立ち止まるものがあったり、先ほど「余韻を楽しむ」という実に名言だなと思いましたけど、そういうものがある。たとえばヨーロッパの場合、オペラハウスがあると、オペラハウスの前に広場があって、そこにカフェテラスがあるんですね。これはなぜかというと、オペラハウスは座席が小さいですから券が買えない。どうしても見たい人は屋根裏というか天井桟敷で拍手をしたりします。日本みたいに「中村屋!」とかいう声はかけませんけどね。それでもまだ入れない人は芝居が跳ねるまで待って、周りのカフェテリアでコーヒーやワインなんか飲みながら「オペラハウスに来る人はどういう人だろうか」というのを見てる。そういうのがなんとなく躍動感に繋がっているという、おもしろいところがあります。宮原先生、仙台の魅力を高めるためには、どんなしつらえをしていったらいいですかね。

コラボレーションや交流から見える可能性を追求することが魅力づくりに繋がる

宮原
仙台の魅力を高めるという時に、私たち市民がチャンスを見つける目を持つことが大事だと思いシンポジウム会場ます。そのチャンスというのは、イベントも自分の住む街の空間づくりもコミュニケーションも、生きる上、生活をしていく上でのいろいろな意味合いでのチャンス。それをどう捉えて自分がどう関わるか。また、そのチャンスを生み出すということが都市には必要だろうと思います。
コラボレーションとか交流とか、コラボレーションに見る可能性のチャレンジとか、交流に見る可能性のチャレンジとか、そういったものがこれから重要になってくるんだろうなと。先ほど石田先生もおっしゃっていた「真の豊かさ」というのを考えると、みんなが可能性にチャレンジして、そこからでてきた結果が豊かさをつくるのだろうなというふうに思います。
こういう例があります。仙台駅東口の土地区画整理区域の中に権利者の方が何人かいらして、なかなかまとまるまで時間がかかる。そして当然、事業が進む中で空き地になっている所があって、そこに仙台市は針金で囲いをし、事業で施行されるまで空地のままおいておかれるわけです。駅のすぐそばに、針金で区画された場所があっていいものだろうかと思ってしまうわけですね。それを可能性へのチャレンジとして、ひとつのイベントとして活用できないか。イベントも3日のものもあれば、1カ月のイベントもあれば、1年間のイベントもあります。
具体的には、その土地を畑にするために仙台市に貸してほしい、と。最初は畑なんてとんでもないと話も出たのですが、ある農業高校も関わって、そこに畑を作ろうということになりました。なんとか畑として貸していただけることになった。そこで自分も耕運機を軽トラックに積んで、畑に肥料を入れて、耕しました。それで何が変わったかと言いますと、仙台駅のすぐそばに畑がある。それは子どもたちにはものすごく良い教材ですね。子どもたちにとっては、「作物ってどう育つのだろう」、「土ってどういう存在?」。郊外に行けば自分の家の庭なんかあるかもしれませんけど、この都市の中にいると、土が見えず表面的にほとんど舗装されている。土が肥えるってどういうことか、都市の中で土の存在を教えていくこともやはり必要だろうと思います。そして土の力を知るということは、そこに作物が育っていくということ、やっぱりそういうことが必要だろうと。これもひとつの実験ですよね。そういうところを畑にしていますと、水がない時には近所の方々も出てきます。夏に作物がしおれていたり、朝に花が咲きかけていたりすると、家から持ってきた水をやる。しばらくして、隣の人も水をやる。そのうちに顔を合わせて「おはようございます」と声をかけるようになる。そのうち「お元気ですか」、「うちはね」と話すようになる。それまで隣の人と会話したことがなかったと、後から伺うこともあります。また畑にノートをぶら下げておいて、なんでも書けるノートを置いてみました。そうするとみんながいろんなことをノートに書いていく。駅前での暮らし、仙台での暮らし、食に関すること、緑に関すること、水をやったこと、孫がどうしたとか…。そんな環境づくりをしていった時に、これも近所の方にとってはひとつのチャンスを生かしていることになるんですね。そして農業高校の生徒たちも授業の一環として、都市の中でのものづくりという形でみんなが出てくる。そして夏休みの夜はスクリーンを立てて映画を上映したり、そして時には塩釜からサンマを仕入れてきて、煙をもくもくさせながら焼き、ご近所のみんなで食べたり。そういうようなひとつの場をつくっていくということが、仙台の魅力を高めていく上で大事なのだろうと思います。
これは仙台に限ったことではないかもしれません。そしてジャズフェスも七夕も光のページェントも、いろんな方がご苦労されながらやっている。でも大きなイベントだけではなく、もっと身近に人が集まることをやってもいいのではないかと思うのですね。何よりも「場」をつくるということが、次の世代の人が育っていくことに繋がるのだろうと。よくリーダーは育てるものじゃない、リーダーが育つ環境をつくればいいのだという声があります。私はそういう環境づくりをしていきたいですし、仙台というのは本当にいろんなことに取り組んでいて、あらゆるチャンスを市民の方がこれでもか、これでもかとおもしろがって活かしていく。それによって次の世代に繋がるリーダーが生まれていく。それをみんなでさりげなく一生懸命やっているのですね。仙台にはいろいろな企業が関わっている土地、行政が関わっている土地、遊休地もいっぱいあります。これからはそういうところも活用し、「いや、仙台っておもしろいね」って言われるような場を設定したい。既存の定禅寺通にしたって、隙あらば花を植えていく。そういうことだっていいわけです。そのような徹底した場づくりをしていくことが、これからの仙台の魅力を高める礎に繋がっていくんだろうと思います。

涌井
実は去年、“COP10”、「生物多様性条約締結国会議」というのがありまして、世界から193カ国集まって、8年ぶりに「愛知ターゲット」、「名古屋プロトコル」というのが決まったんです。私は毎日4時間くらいしか寝られなかった日が10日くらい続きました。それは、その日に始まって終わったとわけではなくて、1年前からずっとやっていました。
その中でもアーバン・バイオ・ダイバスティ、すなわち生物多様性と都市が非常に大きな関係があるという議論がありました。その中でCTバイオダイバスティインデックス、CDIというのですが、都市と生物多様性をどのように指標して評価するのかという協議だったんですね。その議論の提案者はシンガポール政府。シンガポールってずいぶん実は有利な条件なものですから、シンガポール政府が提案したものをみんなが認めるわけにいかないじゃないかと。そこで非常に重要なことは、皆さんがおっしゃっているように、自然、つまり生き物と都市がどういうふうに共存しているかということなんですね。これは今後、都市をはかる上で非常に重要であるということは間違いないですね。
そういう意味では、それぞれの先生方が花や緑というものを媒介にして、人々のコミュニケーションを引き出す。そのコミュニケーションがなければ、共という存在も明確になってこないわけですから、ターゲットを明確にしてみんなでいい街をつくっていこうということが非常に大事だということは、皆さん方も私もなんとなくわかった気がするのです。
追加の質問なのですけど、建物がたくさんありますよね。たとえばメディアテークも非常に有名な建築家がつくった。そしてまた隣に有名な建築家がつくった。その向こう側にも有名な建築家がつくった。…というと、建築家は内側に環境へのメッセージを込めるのかもしれないけれど、よく見ると建築家のオリンピックのような感じになっちゃってわからない。それを楽しいと見るか、あるいは「ちょっと待って」と思うか。個性を少し表現するのを抑えて、道と建物の関係とか、人と建物の関係についてもっと目配りしながら、街を構成していったほうがいいのでしょうか。そのあたりどのように考えますか。

建築物も社会環境や自然環境に何か一石を投じるものでありたい

宮原
これは私の持論なのですけど、デザインというのも大事なのですが、デザインとは無駄なくいかに人にやさしいか、本当に使いやすいか。それが当然ながらいいデザインというものになっていくわけです。一方で建物というのは、こういうビルですと法定償却、償却ベースでいくと60年位で、それは物理的にはそうかもしれませんけれど、つくり方や使い方によっては、設備がきちんと機能すれば100年もつかもしれません。日本の木造建築は100年経った木を使えば100年もつといわれているのですけど、その中で私はこれからの人類が抱える課題がひとつあると思います。
自然環境にしても、人類が今、大変なことに直面している。猛暑日がこの100年間で50倍とか、真冬日が25分の1とか、ヒマラヤもアラスカも氷が溶けているだとか、そういう様々な現象がある中で、建物をつくる時にそういった大自然の変化に向かって、人はものをつくる時にどこまでそれを踏まえるべきか。いろいろな方面から示唆するものがあって、そこからたとえば自然環境にしろ、人のコミュニケーションにしろ、社会環境や自然環境に何か一石を投じることをしているのかどうか。そういうチャレンジをしているかどうかというのが、今もっと前面に出されてもいいのではないかと思うのです。
たとえばこの空間にしても敷地内外で大変な接点をつくり出すという面でもいいわけですけど、もっと通りと外との関係を強く意識するなら、壁面は人のためになっているだろうか、夜は明るく美しいだけでなく、もっと何か人にやさしさを出しているか、そこから気づくことはあるか。屋上はみんな行かないけれど、もっと工夫されていいんじゃないか。もちろん今でも屋上緑化とかしているところもあって、断熱効果としての屋上の緑の存在だとか、CO2削減に少しは貢献する壁面、屋上とか、もっと積極的に活用についての声があったらいいのではないかとか、いろいろ考えるわけです。オフィスビルにしても建物が、都市の中での人のコミュニティにしろ、ものを生産するにしても、もっとチャレンジしていいのではないかと思います。仙台でも今、屋上でミツバチを飼っているプロジェクトも進行しているようですが、もっと建物をつくる時にチャレンジがあってもいいのではないかと思います。

涌井
チャレンジするということになると、かなり個性が出てきますよね。個性が並び建つという感じになって、自由性が前に出る。ひょっとすると混乱しちゃうかもしれない。それでもチャレンジがあったほうがいいと思いますか。

宮原
そうですね。チャレンジしていくということは、少なくても仙台に行けばこんなに示唆に富んでいる建物があるぞと。仙台のポリシーとか理念を持って、あるミッション(使命)のもとにそういうものをつくっていく。それが街の中にあれば、それが今度はひとつの環境運動にもなる。ということは、生活のプラスにもなっていくものだろうと。

涌井
米竹さん、そのあたりはどうですか。

米竹
私も定禅寺通に猫の額ほどの土地を持っております。今日もこの会場にも商店街からおみえになった方々もいらっしゃいます。地権者っていうのは、自分たちの街にいったいどういうふうなものを市民が求めているか、そういうことを地権者同士が納得をして街づくりをしていければと思っています。やはり最後まで自分の土地を守る、ただ地代をもらって家賃収入で街をつくっていくのではなく、地権者たちも一体市民はどういうふうなお店を望んでいるのか、市民が求めているような業種をテナントなりを入れて街づくりできないか。そういう話も加えながら、自分の土地にただ建物を建てるというだけじゃなくて、そのへんの責任を果たしていくことによって初めて、街に特性が出てくるのではないかなとそういうふうに思います。

質疑応答-1

「景観から風景へ」の視点で、仙台の持っている資産をブラッシュアップしたい

涌井
ありがとうございます。私は仙台の魅力を高めるためには、こういうふうに考えるんです。実は我々はあまりにも産業革命の影響で、前に前に進むことしか考えない。日本の住宅の寿命というのは、だいたい平均で26年なのですね。ヨーロッパの場合は120年、アメリカすら80年以上、住宅をずっと使い続けている。そういうことから考えると、これからの日本の街にとって必要なことは、いわばアセットマネージメント(assetmanagement)、資産をどのように管理するのか。こうなると建設する時の投資意欲もなくなってくると思うんですね。ほとんど今建設されているのは、30~40年前に精力的な投資をしてきたものですから、これを維持するために、非常にコストがかかってくる。だから新規の投資になかなか意識が向かない。高齢社会ですし、しかも東北には2050年に人口が半減する県が2つもある。こういうことになると投資能力がどんどん絞られてくる。そうしていった時に今持っている資産を、はからずも米竹さんがおっしゃったように、どのように魅力的なものにブラッシュアップ(磨きをかける)していくか。その発想がなければなかなかできない。だけどそれは、ひとつの建物やひとつの物だけでもできない。ある地区、願わくは地域全体に渡って、ある種の魅力を想像するという方法をとるしかないんですね。
アメリカにおもしろい場所がありまして、スキー場なんですが、アスペンというところです。このアスペンはコロラドの山のど真ん中で、ものすごくアクセスに不利がある。しかし皆さんも聞かれたことがあるかと思いますが、スキー場で有名なだけではなく、アスペン音楽祭とかもあって、たいへん素敵な街を作った結果として、ビバリーヒルズよりも不動産価格が未だに高いんです。
つまりどのようにその地域の魅力を高めていくのか、東京からどのくらい離れているとかそういうことではなくて、ひとつの別な資産価値をつくっていく。景観を考えていくとか、魅力度を高めていくシンポジウム会場ということは、実は何かと言えば、非常に即物的なことを言うようだけれど、自分自身の資産の価値を高めていくこととイコールなんだと。そしてましてや経済的にもそうだし、それ以上に心の中に持てる誇りだとか、楽しみだとか、本当の意味での豊かさを実現するうえで非常に重要なことなんだと。こんなひとつの考え方の中に、「景観から風景へ」というベクトルを欠くことができないのではないかな、そんな気がしますね。
会場の皆さんどうですか。何か反論なり、あるいは賛成だという声があれば。

一般市民
仙台の全体の風格、それと絵になる街というのが必要だと思います。仙台は8つのゾーンに分けられていますけど、そのつなぎのところを仙台市のほうが考えていないように私は思うんです。このつなぎというのは、8つのゾーンのつなぎじゃなくて、涌井さんが今おっしゃったように、個性ある建物を建築家がいろいろつくっているが、その建物と次の建物とのつなぎはどうなのか、面と面が合わさる時のつなぎはどうなっていくのか。いろんな建物を建築主あるいは建築家が好きなように、儲かるように自分たちのエゴみたいに建てているのだけども、市民はそれを望んでいるかということなんですね。先ほど人口と自然とのバランスの取り方で街の風格が決まると先生が言われたように、昔から日本は境界がない。曖昧さによってそれが暗黙の約束事になっているということですよね。仙台でいえば以前、鶴ケ谷に団地をつくった時には、壁はつくらないで生け垣でつくりなさいということがありましたが、あれも境界を曖昧にするということだと思うんですね。そういう隙間の考え、それは日本人の中で暗黙の了解の中にあったと思います。
しかしながら戦後、自分だけというような自我が表に出てきたので、そういうものがなおざりになっているように思うんです。ですから捨ててきたものをいかにもう一度どう見直すか、という時代になっていると思うんですよ。
そこで私、提案があるんです。点じゃなくて面、景観から風景へと言われたように、仙台の建築にかかっている費用、たとえば森トラストのビルとかありますね。その建築費の1%を緑や彫刻などのモニュメントをつくる費用に仙台市のほうで制約させる。建築費の1%だと膨大な費用になりますね。そうすると建物に対する制限も出てきますし、その隣とのつなぎをどうするかというデザインも出てくると思うんですよ。それと先ほど定禅寺通のこともいろいろ出てきましたが、今、「あすと長町」をどうするか、あるいは仙台駅東口のほうをどうするか。戦前の岡崎市長みたいにあの戦災復興の現代版を、定禅寺通の緑道をつくるような考えでもう一度考え直す必要があるんじゃないかと思います。あとは地下鉄の出口のところをドイツのクライツガーデンのような形で上に草木を植え、仙台市内の公園はすべてそうする。錦町公園はどうしようもなくなりました。そのへんをお願いします。そして最後に、モニュメントなり建築物は土に戻らない。壊れますけれど、彫刻や噴水はローマを見てもわかるように、2000年経っても残っています。

涌井
ありがとうございました。非常に貴重なご意見だと思います。今のお話はまさに、最後のパートの今後の仙台の景観戦略をどうしていくのかというお話です。

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 Part.3 仙台の今後の景観戦略

涌井
今の会場からのご提案とも密接な関係があると思いますけど、いったいこれをどんな方向にしていったらいいのか。仙台はどうやら通りというものを欠いて議論することはできない。自然の構成としての山並みなり、あるいは水系なり、あるいは緑の段丘のやわらかな表情という、天賦の仙台の自然景観の条件を、通りというのは恣意的につくっています。これがひとつはケヤキ並木なり先ほどの緑道化によって、自然との調和性というものが図られながら、そこにいろんなアクティビティ(activity:活気、活動)が生まれる。こういう可能性が出てきたかと思うのですが、石田先生、これからたとえば東北大学が動いていくことも重要な論点になりそうですね。仙台の景観について改めて未来を考えていった時に、どんな景観戦略を描いていったらいいのか、石田先生、ご意見をお願いします。

「杜の都」の要件を踏まえたエンターテインメントが推進力になる

石田
すごく質の高い議論が続いていて、僕もそれを聞いているだけでいい勉強になるのですけど、私も同感ですので、これまでのみなさんの意見をまとめる気はまったくありません。とにかく「杜の都」という言葉はみなさんおっしゃるのですけど、杜の都があるべき条件って何なんでしょうというのを、もう一回見ないといけないなと前々から思っていました。
要するに杜の都、「木へんに土」という「杜」は、神宿る自然という意味を持っているわけで、その自然の中に涌井先生の言葉を借りると緑が入れ子のようになっている。それがひとつの結界をつくらないということもあるのですけど、やっぱり仙台の杜の都の素晴らしさというのは、都市の中に自然が入れ子のようになっている。そういう自然という捉え方を昔からきちんとしているというのがひとつ。
それから今日市長がおっしゃいましたけれど、城下町という暮らしの文化、これが醸成した文化、これがジャズフェスのようなものだと思うんですね。
こういう「自然というもの」と「自然から学ぶ」、「自然から受け取るもの」、それから「自分たちがそこで醸成していった文化」、こういうものが文化と自然の回廊のように通り通りを巡っているということがすごく大事だと思います。そういう意味では鳥の目も決して悪くはなく、鳥の目も虫の目も、やっぱりそれがバックキャストだと思うのですけど、そういうものの見方で大きな視点と小さな視点で見るということがすごく大事である。ともすればそういう形をつくって、終わりのところでそれを進化させ続ける、生かし生かされ続けるという、進化の原動力がエンターテインメントなどの遊びの概念だとすれば、それをどのように織り込んでいくのか。そんなことをきちっと考えなくてはいけないのかなという気がしています。
具体的にどうするかということだと思いますけれど、ドライビングフォース(drivingforce:推進力)はやはりエンターテインメントなんだと。そして我々が今大事にしていかないといけないのは、ゼロベースでものを作るのではなくて、杜の都という概念、400年間でつくり上げたもの、それから戦後の復興の60年70年の中でつくり上げた新しい文化の形。そういうものがきちっと縦糸横糸になって、織り込まれるというようなものをつくり上げていく。その道具が仙台には揃っているので、次はその織り込みをどうしていくか。すでに米竹さんのような先駆的な方もいらっしゃるので、そういう方に学びながらつくりあげていくというのが次の新しい戦略かなと感じました。シンポジウム会場

涌井
なるほど。生かし、生かし、生かせ続ける。そこに遊びという文化の究極のものを見つけながら、いわゆる仙台の基盤である城下町の文化、そして都市の中に自然を入れ子にするという構図を持ち続けることが非常に大事だと思います。
柳生さん、お母さんの立場、奥さんの立場、1人の女性としての立場で、仙台の将来を考える時に、どういうふうに考えていったらいいでしょうか。

「都市の中に川がある」ことのメリットを生かしたい

柳生
青葉通は今、地下鉄の工事が進んでいます。完成したあとはどうなるのだろうとワクワクしながら、ひとりの市民として待っています。青葉通は西公園通で終わりますが、その先まっすぐ山のゾーンに入るようですけれど、国際センターの先の仙台城址に続く道まで青葉通の延長にあるわけですね。先ほどご意見いただきましたつなぎの部分も大事に考えてもらいながら、杜の都という部分を大事にしつつ、また新しいエリアがどのようになってゆくのか期待しています。
市長も仙台は川の街であるとおっしゃっていました。そのエリアがどうなるかは先の話かもしれませんが、個人的にはカフェストリート、カフェ街のようなものがあったらいいなと思っております。ドイツのハンブルク、エルベ川が街の真ん中に通っているところに1カ月ほど滞在したことがあるのですが、川沿いに何10件というカフェがずらりと並んでいて、みんなテーブルで人同士が向かい合うのではなく、川に面して座っているんですよね。景色を愛でるかのようにゆったりと過ごしてらっしゃって、それが街中で起こっていたので、ああなんてオシャレなんだろうと思いました。そこで仙台にも川があるし、カフェストリートがいつか実現したらいいなと。道路沿いだと車に見られて恥ずかしいわとか、いっぱい人が通りすぎて恥ずかしいわという日本人の気質、とくに仙台でもそう思う方が多いのではないかと思いますが、川があれば見られる量も減るし、なんかいいのかなと。
もうひとつ仙台の将来を考える時に大事だと思うのが、次の世代に街の持っている良さを伝えていくこと。自分の子どもにもそうですし、目で見て、触れさせてあげたいというのがあります。それと景観を作ってらっしゃる方々もメディアの力をもっと利用されてもいいんじゃないかなと思う時がありまして、地元のニュースでは事件や事故とかスポーツをどうしても優先的に報道してしまうのですけど、もっと景観の美しさとか、景観に携わってこられた方々を深く掘り下げて取材して、伝えていく、発信していくということも大事だなと思いました。プレゼンテーションの仕方もあるのかもしれないですけど、メディアをうまく利用しながら、子供たちとか若い世代にきちんと伝えていくことができたらなと思います。

涌井
柳生さんはメディアの真ん中におられるので、ぜひお願いします。宮原さん、今後の仙台の景観戦略はどうあるべきだと思いますか。

行政の姿勢、企業の姿勢、市民の意識を受け止めていく環境づくりを心がけたい

宮原
今後の景観戦略ということ考える時に、仙台は杜の都として全市民が景観づくりにひとつのビジョンを持って、それに大なり小なり向かっていると、外から見ればそういうふうなことを言わしめることが必要です。ある市民団体が自然の生態系と対峙していく中で、自分の住んでいる所の町内会というコミュニティからもっと大きな仙台都市圏というスケールまで、よく考えていろんなモノ・コトづくりに取り組んでいます。そういうベースが今後の景観戦略を考えた時に必要なのだろうと思います。そういうものを抜きに単なる目新しさに走ってしまうと、次の世代に肝心なことが伝わらないと思います。それとこれからの景観戦略を考えて行く上で、市民の方たちがいろんなご自分の経験やひとつのライフステージから一石を投じることも、今後ますます増えていくと思います。そういう時にそれを都市としてどう受け止めていくか。これはある種、今後の景観戦略を考える時に、行政の姿勢、企業の姿勢、市民の意識ということになっていくのかもしれませんが、そういうことがもっときちんと受け止めていける。そういう環境づくりも必要なんじゃないかなと。
一方で今後の景観戦略を仙台がきちんと持っていくためには、市民に対してプレゼンテーションしていく。または外の方に対して、仙台はこういうことをめざしているんですよ、こういう意識の街なんですよと(プレゼンテーションしていく)。具体的なイメージがきちんとできていれば、ひとつの都市のステイタスもいろいろな経済環境もつくりやすくなるかもしれません。そういうふうに、きちんと姿勢を見せる場があっていいんじゃないか。
定禅寺通はひとつのものとしてイメージ、景観形成地区という位置づけにあります。では大勢の方がみえる玄関口としての仙台駅はどうなんだというと、少なからず景観戦略とか景観のことは考えられてはいますが、議論するのは広告物とかそういうものが多くなっています。たとえば仙台駅の壁面を緑化して、その表情としても自然界のお天道様と対峙していく。それもひとつのものとしても意味があるし、緑化して、データをとって、観測する。そういうことがあるんです。
それから今、もっといろいろなエレクトロニクスの世界がレベルアップしていますから、仙台駅のあるコーナーに行けば、スピーカーも指向性のものであれば、ものすごくリアルな広瀬川のせせらぎの音が聞けるとか。仙台は水の街ですよ、川の街ですよと、そしてさらに、大年寺山にそよ吹く風の音ですよ、定禅寺通のケヤキが春に新芽を吹き出してパリパリっと割れる音ですよと、もっと五感に訴えるような映像や音響の活用を駆使するとおもしろいと思います。人と自然がこんなふうに接するのだというのをバシッとやって、そこから仙台の景観戦略に繋がっていく。まずはそれが基盤かなと、そんなふうに思います。

涌井
ありがとうございました。最後に米竹さん、仙台の今後の景観戦略を考える上で具体的にいかがですか。

米竹
お答えになるかわかりませんけど、まずは高名な先生方に私のつたない話が過大評価されて、本当にありがとうございました。私も光のページェントは、子どもに夢を与えたいという本当に単純な考えから始めました。そしてジャズフェスは、街で演奏する人たちも聞く人たちも場所を提供する人たちも、みんなで一緒に平均的に楽しんでいこうと、それをコンセプトに始めました。
今、先生に景観戦略をどうしますかと言われても、私は学者でもありませんし、一般市民であります。普段着の中で今日もシンポジウムに参加させていただきまして、いろいろな世界的な例とかなんかも聞きました。それを家に帰って咀嚼し、自分なりに消化して仙台の街に反映させていければいいかなと、そんな気持ちでいっぱいです。本当に今日はありがとうございました。

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 Part.4 総括

暮らす人々の息づき方、楽しみ方、街を愛するパフォーマンスや姿勢などが重なることで、はじめて景観は風景に変わる

涌井
シンポジウム会場
どうもありがとうございました。結論が出ないのがこういうトークセッションだと思いますし、その結論というのもおそらく、今日ご参加の皆さま方の心の中にひとつひとついろんな迷いがあって、それが結果としては市民の声という形で、仙台市に反映した総意が結論だろうと思います。
そしてどうやら、こういうことが言えそうだと。仙台というのは類まれなイメージの宝庫だ。それは一旦、戦争で灰塵に化したとしてもその杜の都というイメージが市民の皆さま方の奥底に残っていて、そして一旦ビジュアルは断ち切られてもそれを再創造しようというエネルギーに支えられて、見事に「杜の都」というブランドを回復した。そしてさらに、その回復する道筋のエネルギーというのは市民力だということについても、今、定禅寺通のいろいろ具体的な提案をしていただいた米竹さんの言葉からもそれが垣間見える。ではいったい未来はどう描いていくのか。そのトレンドの上でいいのか、それが非常に大きなところだと思います。しかしちょっと振り返って考えてみると、こういうことがいえるのかなと。
私、実は「愛・地球博」の総合プロデューサーをやったあとに上海世博会事務協調局というところから「上海万博」のプロデューサーに就任してくれと言われました。そして私の側から口頭試問したんですね。上海市は、上海市を取り巻く農村地域と上海市の都市との関係をどう考えているのか。そう問うと「先生、そんなのは関係ないですよ」と。上海市がいかに優れた街であるかというのが世界に伝わればそれでいいと。私はそれは違うだろうと思ったんですね。かつてあなたがたの政治の根幹だった毛沢東は、農村が都市を包囲したと言ったじゃないかと。これからの都市は、その背景にある農業地域と都市の交流というものを考えなければ、都市そのものも存在しえない。そういう話をしたら拒絶されたものですから、総合プロデューサーの就任を断ったといういきさつがあります。
そういう面で言えばこれから大事なのは、自然と人間と社会。とりわけ西洋の都市については先ほど石田先生がおっしゃったように、神様の代理人としての人間が神の御業を同じように振るまった場合にこういう都市ができるというので、わざわざ自然と決別する都市の姿をこしらえたのですが、日本の場合には都市の中にも田んぼがあって当たり前。こういう入れ子の構図になって常に自然と共生している。これは大変ですよ。自然との共生というのはCOP10の愛知目標の最初に出てくるんですね。それですら各国の抵抗があったんです。しかし、ようやくにして、彼らがエクスカーション(excursion:共同で行う野外調査)を重ねた結果、これは我々の共通の方向だという合意形成ができて、これが愛知目標の冒頭に出てくるんですね。まさにこれが世界共通の言語になるだろうと。
自然との共生ということを考えれば、「仙台風」というのは実に見事にそういうひとつの資格を持っていると思います。仙台の今日に至るまでの街づくりなり、街の歴史なり、それから皆さま方が目指そうとする「仙台風」というのは、まさに自然との共生と、ここにかかっているのではないかと。その中でまたひとつ発明をされたわけですね。利休は「不易と流行」という言葉を使いました。つまり変わってはいけないものと変わってほしいもの。人間は変わってはいけないものばかりだと変わりたいんですよね。またそれが米竹さんが「街は生きている」とおっしゃっていた、その呼吸だと思うんですね。
応仁の乱のあと祇園祭ができたのは、これで灰塵に帰して京都の街が駄目になるのはいやだと。そこで町衆が祇園祭を見事につくりあげていった。しかも驚いたことに、祇園祭の山がどういうスケールになっているかというと、実はあそこの上にコンチキコンチキってやる人たちがいますね。あの高さと祇園の町屋の2階の高さが「ぞろ」なんですよ。そこに桟橋をかけて、行き来ができるような高さにした。つまり祭りが街の景観を作ったといっても過言ではない。
こういうようにいわばソフトというか、人間の気持ちをその街の姿が見せるという、その気持ちを駆り立てていくようなものが本当に生き続けていくものなのじゃないかなと。したがって「景観から風景へ」というベクトルを明確にするためには、そこで暮らす人々の息づき方、楽しみ方、街を愛するパフォーマンスや姿勢、そういう人間の情念みたいなものが重なって初めて、景観は風景に変わっていくのだと私は今日皆さま方の話を伺ってしみじみそう思いました。
岐阜県の美濃国というのは、非常に山奥です。美濃和紙がだめになって、街全体が伝統的建造物群保存地区の本当に素晴らしい街なんですけど停滞してしまった。みんな荒れ果てていった時に、なんとかこの街を復興しようというんで、「美濃和紙あかりアート」という企画をやり始めたんです。それは美濃和紙を使って、日本全国から灯りを集めて、そして建物と灯りが見事にマッチングすることになる。実はこれが17年前(1994年)。石井幹子という照明のデザイナーと私とでいろいろ考えて、仙台は光でいいんですけど、光から灯りへという提案をしました。光は文明、灯りは文化という定義でした。そしてそれが見事に伝建とマッチングして、誰もコンテストで落とさないんですよ。ただし表彰はします。その代わり条件がある。そこに応募した人は必ず美濃和紙を使って灯りを作ってもらって、自分で街に持ってきて据えてくださいと。最初の頃は民家の内側にテレビや蛍光灯が点いていました。ところがどうでしょう、3年も経ったら、その住民の人たちはお祭りの期間はテレビも見ないし、蛍光灯も点けない。だからその和紙の灯りだけが、見事にうだつのある伝建の街並みを照らし出して、住んでいる人たちがそれに涙しているんですね。こんなに素晴らしい街だったんだと言って、今もどんどん街が良くなっていく。
そういうひとつの、モノとコトの関係。産業革命の時代はモノがコトを切り拓いていったんです。もしかしたらこれからは、コトがモノを切り拓いていく時代になるのかなとそんなような気がしたわけです。今日は先生方から非常に貴重なお話をいただきました。これで柳生さんにお返しします。どうもありがとうございました。

質疑応答-2

柳生
ありがとうございました。では質問タイムということで、ひとりだけ質問を受け付けたいと思います。今回のパネルディスカッションについて質問のある方はいらっしゃいますか。

一般市民
私はすでに男性の平均寿命を超えた老爺です。私の意見を申します。
杜の都の「景観から風景へ」ということでやむを得ないのかもしれないですけど、仙台がこうありたいとか、あるいは定禅寺通だけが、ということだけにこだわってはいけない。もっと広く考えて、日本全体。先ほど涌井さんが言われたように、私もまったく同感なんですけど、坂の上の雲ではなく、坂の下の泥沼に向かって真っ逆さまとならないように。あちこちの景観をよくしたいとか、ああしたい、こうしたい、そうやった結果が自然破壊に繋がって、坂の下の泥沼に地球全体が飛び込むということにならないように、ぜひお願いしたい。
やはり自然と共生しないといかん。自然をいじくれば、必ず反動があります。諫早干拓しかり、それからダム問題もしかり、自然と共生する道をこれから探求しなくてはいけない。私はそう思います。

涌井
私も将来、今の方と同じようになりたいなと思うんですね。ヨーロッパの物語にもスピルバーグの映画にも必ず哲学を持った老人が出てきます。この人の言うことを聞いておくとだいたい間違いがないというのがありますので、そんなようなことも頭に入れながら、そういう中でどうやって生きていくのかということを一緒に考えるようにしたいと思います。ありがとうございました。

柳生
皆さまありがとうございました。お話も尽きませんが、閉会のお時間となりました。コーディネーターの涌井様、そしてパネリストの石田様、宮原様、事例紹介をしていただきました米竹様、ありがとうございました。

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