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更新日:2020年11月2日

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景観計画施行記念シンポジウム第2部トークセッション

第2部 トークセッション

「杜の都流」のまちづくりを目指して

コーディネーター

石田 秀輝(東北大学大学院環境科学研究科教授)

パネリスト

小黒 一三(月間「ソトコト」編集長)
涌井 史郎(桐蔭横浜大学医用工学部特任教授)
渡辺 祥子(言の葉アーティスト)

渡辺
第2部は、石田先生にコーディネーター役をお願い致します。壇上におります4名で進めていきたいと思います。それでは、石田先生、進行をどうぞ宜しくお願い致します。

景観をつくる文化的価値-地域遺伝子-

石田
石田と申します。宜しくお願い致します。私は、仙台へは新参者ですが、ここに来て、感動しました。本当に美しい。それから、空気が綺麗なのですね。食べるものも美味しくて、本当に心から感動したことを鮮明に覚えています。
景観協議会の役割は、多くの制約の中で、具体的な行動を通して、経済的価値を生み出さなければいけないわけであります。最終的には、文化的に価値を作ることを目的とすべきだろうと思います。文化的価値という視点から、既に、仙台は「杜の都」という地域遺伝子を持っており、自然資本の時代のまちづくりにどう活かすのか?を一生懸命に考えなければいけないと思います。
「杜の都」の「杜」は、人工物という意味合いを持っていますが、「鎮守の森」の意味です。「木」と「社」という意味を持っています。日本人が本来持っている自然の神に通じるようなものを感じます。家から庭へ、野良から野へ、里山へ、奥山へ、そして嶽へ。そのような所に、私達の暮らしが繋がっています。奥山、御嶽は、天に向かう神の梯子です。私達は奥山や御岳に居て、その後、その梯子を登って天へ逝く。日本人が持っている神に対する形です。「杜の都」の「杜」は、そのような梯子に繋がるものあり、その価値観について、再認識するべきなのかなと思っております。
私は、地球環境が専門でございます。9割以上の生活者は、地球環境が大変な問題だと認識しています。テクノロジーの世界においては、地球環境を考えたエコの商品が溢れています。生活者が一生懸命に環境のことを考えなければならないと思っていて、エコ商品が溢れているにもかかわらず、残念ながら地球環境はどんどん劣化しています。何かが不足しているのです。私は、この不足しているものが自然観だと思っています。
景観の役割は、地域の遺伝子にあり、自然資本時代のまちづくりであります。景観を考える上でも、今、やはり、自然観が欠落しているのではないだろうかと思います。そこに、私達が新しい「杜」という概念を入れることです。本当の景観は、自然や歴史文化、街並み、生活が連続して合わさった風景が景観なのに、自然は自然、生活は生活というように分けてしまっています。その垣根を取り払うということや具体的なアクションを含めて、本当の意味での景観をつくる文化的価値つくりであると思います。
では、涌井先生の講演をお聴きになって、皆様の感想を頂きたいのですが、小黒さん、いかがでしょうか?

小黒
皆さん、こんにちは。「ソトコト」という雑誌の編集長を務めている小黒です。本業は、雑誌の編集者です。涌井さんとの縁は、20年前、ケニアの国立公園にホテルを造ったことにあります。丘の上にあり、眺めの良いホテルの経営者でもあります。私は、雑誌の編集者なので、商売が下手でして、涌井さんに数々のアドバイスを頂きながら、20年を迎えた状態です。
景観というと、普通の人が思うことは、京都のビルの高さ規制とかですね。それから、消費者金融の看板がどこの街に行っても、駅前にあって、汚らしいとか、そのようなことを規制する法律なのかなと思っていまして、私にはあまり興味がないものでした。ところが、今、涌井先生の話を聞いていて、「いや、そうじゃないのだ。」と気づきました。法律を決めて規制するのではなくて、皆さんの価値観ですね。
雑誌の編集者は、世界のあちこちを取材して、読者の方がハッとするような記憶に残る写真を撮ることが大事なことだと思っています。今、私の30年に渡る編集者生活の中で、心に残る景色は、何なのか?と、ふと思いました。「フェルメール」という著名なオランダの絵描きをご存知の方もいると思います。「ソトコト」以外にも、ANAの「翼の王国」という雑誌の編集長を務めていまして、去年、その取材に行った時に、「デルフトの眺め」というオランダの絵に素晴らしく惹き込まれたのです。16世紀に、「フェルメール」が描いたポイントに立ちたくて、デルフトの町を歩いたのです。オランダやヨーロッパの街並みは、変わってないのですよ。日本人にとっては、例えば、江戸時代の東海道五十三次の絵とか歌川広重とかいるじゃないですか。素晴らしい魅力を持っていますよね。ところが、あの絵を描いた場所は、今や、見る影もない。創造するしかないような日本人が行なってきたことが明治以降の歴史なのだと思うのです。
もう1つ、一番惹きこまれた眺めは、マサイマラの丘です。そこに立った時に、景色に惹き込まれるのです。サルが人間になって出てきた時、初めて見た景色が遺伝子の中にかすかに残っているから、惹き込まれるのだと思うのです。遥か、私達の先を生きている人達の場所で、昔懐かしい景色を見ると、惹き込まれてしまう。私が惹きこまれる景色は、デルフトとマサイマラと、今や無くしてしまった浮世絵に数々現れる江戸の眺めですね。それが果たして、景観計画が施行された記念すべき日に、お集まり頂いた方々が感性豊かな思いを盛り込まれるかどうかの役割だと思いますので、楽しみにしております。

石田
ありがとうございました。マサイマラの丘から見た風景や景観先進国のような私達の将来像。一方では、デルフトの時代の17,18世紀。そこの差はあるのですか?小黒さんの中では、その景観という意味なのか、景色という意味なのか?その共通点と違うところって何ですか?

小黒
多分、街と手付かずの自然というのが全く違いますよね。共通点は分からないのです。私の感覚的なところにしかないと思うのです。惹き込まれるのですよ。景色は、目で矢を刺すようなもので、攻撃的なものが自然だと思うのです。気に入ったこの2つの景色は、自分がその中に惹き込まれるような、包み込まれるような眺めが心地良いのではないのかなと思いました。

石田
それでは、続きまして、渡辺さんに今日の感想も含めて、パワーポイントを見せて頂きながら、お喋りを宜しくお願い致します。

渡辺
私は、アナウンサーとして仕事をしている一方で、朗読家として全国各地を周って、舞台で物語をお伝えする活動もしております。元々は、ラジオのパーソナリティでして、昔も今も声の言葉で皆様にメッセージを伝える仕事をしております。
私にとっての景観の認識は、10年前に、地域で活動している方々にインタビューをしたことにあります。景観って、一体、なんだろう?サポーターをこの方々がやっていて、どういう意味があるのだろう?と、一生懸命に考えました。私にとっての景観とはこういうことかな?と、思い当たったのは、自分の故郷に戻ったときでした。私の故郷は、宮城の明治村と言われる登米町です。アナウンサーに成りたての頃は、田舎で暮らしていたことがコンプレックスでした。東京のアナウンサー試験を受けて落ちた時は、「履歴書に田舎の住所があったのがマイナスだった」と言い訳をしていました。でも、ラジオのパーソナリティーを務めている中で、一番のウリは何か?と、考えた時に、インタビュアーとしての自分の個性であることに気づきました。休暇で、故郷に帰った時に、父親を乗せ、登米町の北上川沿いをドライブしていたときに気づいたのです。登米町を流れる北上川は、どっちが上流で下流か分からない位、止まっているかのような川です。そこを走っていた時に、「この町に生まれて本当に良かったと思い、父に感謝の思いを伝えました。今、インタビュアーとして、安心して仕事を任せられると言ってもらえるのも、ここに生まれたからなのよね。」と。先輩を連れて行った時には、「このような、ゆったりとした町で育ったからあなたがあるのね。」と言われました。知らず知らずのうちに、この町並みや景観が、自分を作ってくれていたのだなと思います。それは、町並みだけではなくて、そこに暮らす人々や様々なエピソードがあってのことだと思うのです。それ以来、登米町を全国どこへ行っても自慢して歩くようになりました。その頃から、出会う人や仕事の仕方、アプローチ等が変わっていったように思います。ところで、仙台で過ごした時間は、その故郷で過ごした時間より長くなりました。この仙台で、私のアイデンティティはどう確立していったのかを考えてみました。フリーで仕事をして20年。仙台の街並みが私を支えて、ここまで導いてくれたことに気づきました。
鹿落坂からの景観(JPG:80KB)

「鹿落坂(ししおちざか)」からの景観です。住まいのある八木山から車で街に下りてくる時、向山2丁目の辺りからその景観が見えるのです。宮沢橋が見えて,ここを通ると、仙台を一望できるので、あの人やその人の顔が浮かびます。仕事が上手くいくときもあれば、上手くいかなかったりして、逃げ出したいときもあります。隠れたいときもあります。でも、そんな時に、この景色を見ますと、「逃げられない。埋もれられない。」と思うのです。これ以上に大きな街だったら、埋もれられます。登米町位だと逃げ出しちゃうかも。でも、仙台という街は逃げも隠れもできないような感じがしまして、18年、フリーアナウンサーとして生きてこられた。逃げも隠れもせず、「やるしかないや。」と、腹をくくれたのは、この景観が支えてくれたのだと思っております。この景観が変わってもらっちゃ困るのです。都市景観が無くても、つまらないですし、緑が無いと自暴自棄になってしまうかもしれない。このくらいのバランスが良いのです。「お前、ここで踏ん張れよ。いろんな人にお世話になったじゃないか。みんなに恩返しをするのだぞ。」という思いにさせてくれる景観です。そんな景観から生まれた様々なイベントを通して、頂いた恩恵を皆さんに恩返しして、伝えていきたいと思っています。この後、私の些細な活動を紹介させて頂きたいと思います。まず、ここでは、私自身のルーツ等を喋らせて頂きました。

石田
仙台大好きな渡辺さんですね。本当に大好きだということが伝わってきます。景観が集まると風景になって、風景が集まると風土になって、風土が文化になる。景観や風景が集まって文化を創る。人も創られるのですね。渡辺祥子は、そうやって出来ました。仙台は、逃げも隠れもできなくて、登米町だったら、平気で逃げられる。東京であったら、埋もれてしまう。塩梅というか、いろんな漢字があって、どれがその原点か私にはよく分からない。ですが、塩梅というのは、「風(かぜ)」なのでしょうね。その不思議なところは、科学で何とも仕様がない。これが文化だというと文化であるということも、数字で置き換えようとするから、おかしいことになってしまう。この塩梅がとても重要なように思えてきます。
涌井先生、今まで3人の話を聞いて頂いて、ご感想、ご意見をお話頂けますか?

涌井
先程、小黒さんからサバンナの話をして頂きました。樹上生活をしていたサルに近い類人猿が地上に降りてきた時は、所々に草原に草木があるというまさにサバンナの姿ですよね。渡辺さんから興味深い登米町の話を伺いました。小黒さんという人は人間をも編集してしまう人で、そのお陰で、「翼の大国」に「囲われたエデン」というタイトルで、もう3年間連載を続けています。登米町のことを伺い、改めて普段、気がついてないのだけれど、自分に語り続けている風景があることに気づかされました。そうした景観と自分の関係が分かった時、外側の環境と内側の環境、つまり、自分を取り巻く環境と、体内の生理的な環境とが調和して、心安らぐ状態になることが多いのです。小黒さんが紹介してくださったように、マサイマラから眺め下ろす景色への反応も良くわかります。人というものは危険な状態の緊張時、視野は狭窄しますし、警戒心が猛烈に強くなります。リラックスしますと、警戒心が薄れ誰もが敵でないと思うのですよ。こうした感覚が街にとって、非常に重要です。リラックスされる環境の中の適度な緊張感。このように環境に対する適度な反応が入り混じった状態を「見える環境」である景観により作り出すことが望ましいと思います。登米町に行ってみたいとさえ思いました。これは、小黒さんのデルフトの話にも共通したものでしょう。人には、人生の座標になる原風景が必要です。それは歴史であったり、故郷の香りであったり様々でしょう。人間は物理的な力は他の動物に較べ、弱いものの、知恵と感性の発達により、競争に打ち勝って生き抜いてきたという歴史があります。よって、他人には価値が感じられなくとも、特定の人々にとっては、ある景観が記憶を折り戻させたり、安心感をもたらしたり、非日常のワクワク感をもたらしてくれたりします。私は景観とは、その地域の見える遺伝子であり、環境や文化に対する愛着を守ろうとする決意の表情だと考えています。渡辺祥子さんと小黒さんのお話しからそんなことを感じました。ありがとうございました。

石田
自然を読み取る力は、外側の環境はビジュアルで分かり、内側の環境は、それを受け止める力ですよね。これが、バランスしないと受け止められない。どこへ行っても何も感じない人も出てくる。小黒さんとお話していたら、最近、何も感じない草食男子が急増してきたのだという。いくら、ビジュアルなものを創っても、その文化的価値になるかどうかは、受け取るべき側のトレーニングが必要なのだと思います。例えば、サルの話がありましたが、人間がサルと圧倒的に違うところは立つこと、そして、喋ること。その立つこと、喋ることを通じて、家族というものを持つ。個と個の結び合いが強固になって生活という新しい結び合いの価値観を創るわけです。その結び合いを作った瞬間に、従来のサルの群れとは、全く違う価値観を私たちは創ったわけです。景観という視点からは、今回は、自然と結び合うことをやっていくのですが、自然と結び合うというレベルから考えると、日本人のその結び合いのレベルは世界でも桁違いにレベルが高いと思いますね。
余談になりますが、近代型のテクノロジーは、産業革命頃の18世紀中頃以降から始まりました。産業革命が成功したことは自然との決別なのですよね。大量生産大量消費になって、初めて、テクノロジーが庶民のものになるのです。技術は庶民のものではないのです。戦争の為か、金持ちの為。要するに、王様の為の技術です。庶民のものになったのは産業革命以降です。産業革命において、テクノロジーは、庶民のものになりました。そういう意味では、日本の産業革命は江戸時代に興りました。日本が素晴らしいのは、それが、大量生産につながらなかったことです。精密な機械である「からくり」という技術を持ちながら、大量生産していないのです。欧米型の大量生産と日本のものづくりの原点の違いを考えた場合、私達は自然観をしっかりと持ち続けていると考えて良いと思います。自然と結び合うことはテクノロジーの世界であろうと、風景を見る世界であろうと、決して、差は無いのです。そのような感性は、日本人には脈々と伝わり、残っていると信じているのですが、今、それが欧米の思考で、ずたずたと切られようとしています。例えば、携帯電話のように、コミュニケーションや結び合いを切るというようなものがどんどん増えている。景観は、結び合う文化的価値ですよね。今、3人のお話を聞きながら、もう一度、文化的価値を結び直すことの必要性を感じたのです。

涌井
景観は、この街をどのようにしていくか?地域遺伝子があることと同時に、共有化しながら、未来を生きる決意の表情だと思います。

イベントを通して景観をつくる-仙台のお人よし集団-

渡辺
それでは、仙台市の取り組みをご紹介させて頂きます。都市の景観と市民の皆様の手作りのイベントに見事に調和した催しです。先程、涌井さんのパワーポイントの中にも「定禅寺ストリートジャズフェスティバルIN仙台」の映像があったかと思います。こちらは、「都市景観大賞」を受賞しました。また、「ジャズフェスティバル」と一緒に「光のページェント」も「都市景観賞」を受賞していますね。そんな「ジャズフェスティバル」のボランティアの方々のノウハウがあってこそ、出来た催しでありますので、ご紹介させて頂きます。
「とっておきの音楽祭」です。ご存知でしょうか?2001年に第1回を開催致しまして、毎年6月の第1日曜日に行っているバリアフリーの音楽祭です。「ジャズフェスティバル」と同じように、建物のバリアを外して主に屋外が会場になっているのです。車椅子の方も大勢出ています。とっておきの音楽祭(勾当台公園・サンモール商店街)(JPG:103KB)
ここは「勾当台公園」でして、県庁、市役所前の市民広場です。こちらは、「サンモール商店街」です。「とっておきの音楽祭」は、今年は、22のステージで、226の個人、団体が出演しました。本当は、250~300近い申し込みがあったのですが、1つのステージが増すごとに、予算がかかるので、なかなか大変です。およそ1900人の出演者が日本全国からいらっしゃいました。21万人のお客様を迎えて、実行委員を含め、ボランティア500名で、今年の6月も運営しました。第9回の開催でして、平成18年度の「バリアフリー化推進功労賞表彰の内閣府特命担当大臣表彰」、それから、平成19年には「第3回日本イベント大賞」と「社会貢献部門賞」を受賞しております。「日本イベント大賞」の大賞は、正直関係していた私も実行委員として関わっており、びっくりしました。フジテレビさんの世界陸上のようなイベントもノミネートしている中で、「とっておきの音楽祭」が「日本イベント大賞」を受賞したことは特筆すべきことだと思っております。障害がある人もない人も、一緒に音楽を楽しむことで、心のバリアフリーを目指そうという音楽祭です。ここは、ちょうど、メディアテークの並びですよね。竹中工務店さんのビルでして、仙台市の取り組みとして、定禅寺通地区のケヤキ並木の風通しを良くする為に、沿道の1階部分のセットバックをルール化しているのです。良いステージになるのですね。ここは、写真を撮る方も多く、その向かい側の定禅寺パークビルも、「本当に、ステージを造って頂きまして、ありがとうございます」という感じです。このようにして、市民の方々と交流を図り、車椅子の人も杖をついている方も、いろんな人達が溢れ出して、筋ジストロフィーの方が歌を歌い、道行く方々が、「とっておきの音楽祭」に来るつもりはなくても、ただ、買い物に来た人にでも、このような所で、目を留めることができる。「1年365日がこんな街であったら良いよね。」ということで、活動しています。このドキュメンタリー映画ができまして、2006年の「とっておきの音楽祭」の1日を追ったものでして、全国で上映が続いています。仙台の街並みと一緒に、「とっておきの音楽祭」で、一生懸命に障害のある方たちが歌っているのを見ていますと、こんなやさしい街に住みたいと思うのです。仙台市のPRにもなっているのではないかと思います。今年は、私の知人で、東京から音楽家とテレビ番組のプロデューサーがプライベートで見学に来たのですが、「本当に手作りのイベントですが、あの温かさと一体感は一体何なのでしょう。仙台の街と人が醸し出すものなのですね。あの一体感は初めての体験でした。」という感想のメールが届きまして、“街と人が”ということは、仙台ならではの祭りではないかなと思います。やはり、この街並みでなければ出来なかったことだと思いますし、涌井先生がこの街並みを造った方々のご苦労の話をしてくださったこともありますが、思いの積み重ねでなければ、このような思いがこもったイベントが成り立たなかったのだと思います。これから、どのようにして、10回目、20回目を迎えていくかということは、実行委員のメンバーの色々な思いに繋がっていくのかなと思います。それから、もう1つイベントが行われておりまして、東北大学植物園での取り組みでして、石田先生、植物園はいらっしゃっておりますでしょうか?先生、植物園はいらっしゃっておりますでしょうか??

東北大学植物園(JPG:106KB)

石田
大好きです。

渡辺
はい、ありがとうございます。「ありがとうございます。」と、言ってしまう程、私も市仲間と一緒に、東北大学植物園を応援しているのです。今年で、東北大学植物園は50周年を迎えます。仙台駅から車で10分もかからない、7分位で着く青葉山の森ですが、政宗公の御裏林だった所です。400年前から、ほぼ手付かずの状態で残っています。植物園としては、我が国では、初めての天然記念物に指定されている場所です。政宗公の御裏林ということで、4年前から「政宗さん家の裏庭探検隊」というのを作りまして、植物園の方々と協力して、皆で探検して歩こうというイベントを行っています。イベントを行う時、参加者が植物園で待ち合わせをしますと、必ず、待ち合わせに遅れる人が何人かいるのです。電話をすると、野草園に行っているのです。東北大学植物園は、こんなに素晴らしい手付かずの大自然なのに、あまり知られていないところが悲しくて、皆で、なんとかしようとする活動をしています。3年前に、5月4日がみどりの日になったことをきっかけに、全国の植物園協会がこの日を植物園の日にしました。普段は、天然記念物ですから、手付かずの大自然。楽器を使うことはあり得ないことですが、この日だけは音楽祭をさせて頂いております。

自然とマッチングしたイベント(残月亭跡にて)(JPG:139KB)

ここは「残月亭跡」です。五代藩主の伊達吉村公が造った「残月亭」という茶室があった場所で、私は、「月を眺めていたのかな。」と、思いながら、朗読をさせて頂いたり、オカリナという楽器のオシャクリナの合奏団の方と競演したりしました。翌年にも、このような形で活動しました。これは、5月4日に行われたのですが、演奏している人の後ろの所から天然記念物になっています。これがオカリナとリコーダーとフォルクローレ。木の楽器にこだわってコーディネイトしました。本当に、緑のある空間でして、仙台市内から10分もかからない所にある森です。森に入ると、街の雑踏がスッと消えるのです。先日、50周年のシンポジウムがありました。東北大の学長さんは、「このような森を持っているのが誇りであるし、ゆとりに繋がっていくのではないか。これは、すごく大事なことではないか。」と、おっしゃっていました。嬉しい言葉だなと思いました。余談にはなりますが、この時に、シンポジストである脳トレの川島隆太教授がおりました。彼は、東北大学の医学部ですが、受験の時に、京都大学か東北大学かと、非常に悩まれたようです。その時に、さとう宗幸さんの「青葉城恋唄」が流行っていて、この歌に惹かれて、こういう所に住みたいなと思って、東北大学を受けたそうです。また、この植物園を使ったイベントを言い出した方は静岡出身の東北大学を出た女の子でして、そのまま仙台に残っているのです。この風景は、優秀な人材を仙台に呼び込み、東北大学を卒業しても、優秀な人材が仙台にそのまま残るきっかけにもなっているかと思います。取り組みの1つとして、この植物園を使った催し等も行っています。ここでは、自然とマッチングしたイベントをご紹介させて頂きました。

石田
はい、有難うございました。「ジャズフェスティバル」や「とっておきの音楽祭」、そして、全く違う切り口から、「東北大学の植物園」。植物園とはいっても、奥に行くと、森がそのまま残っておりまして、喧騒を忘れますね。私も好きです。本当に、仙台らしい植物が綺麗に自然のままに生きていることを感じます。渡辺さんの「とっておきの音楽祭」や「ジャズフェスティバル」もそうなのですが、私も仙台に来て、一番びっくりしたことは、毎週のように、イベントを定禅寺通付近で行われていることです。特に、大きいのが「ジャズフェスティバル」や「とっておきの音楽祭」、「仙台クラシックフェスティバル」等ですが、これらが全くの手作りだということを聞いているのです。私は、名古屋に25年間居て、名古屋でもそのようなことをやろうと何度も挙がっていながら、成功しないのです。それは、先程申し上げた大きさの問題かどうか知らないですが・・・。渡辺さんは、仙台でそのようなものが頻繁に行われており、また、行政からサポートをしてもらうことを前提にしなくて行われているということに関して、どのように思いますか?何がドライビングホースになっていると思われます?

渡辺
私も分析をしたことが全くないのですが、関東圏の友人である表現者に、「なんで、そんなにボランティアするの?大丈夫なの?プロとしての立場を守れないのではないか?」と言われます。仙台でイベントを行うと、サポートしている運営スタッフは同じような顔触れで、「仙台のお人好し集団」と呼んでいます。私もその一人でしょうか。「仙台のお人好し集団」でもっているのではないかと言うのは冗談ですが、ボランティアも楽しんでやっています。植物園もですが、もっと自分たちの居場所を楽しんで欲しいと思いますし、東北大学の学生の体育の時間にあそこを歩いて欲しいと思います。仙台では、「何かをやりたい!」と、誰かが手を挙げた時に、「だったら、あの人のところに行きなさい。」と、アドバイスをしてくれる人がいて、その人のところに行くと、大体、仙台市のその担当の人や地域のトップで活動している人と繋り、思い付きで手を挙げた思いが自分だけの利益ではなくて、それが街にとっても、自分にも、周りにもみんな良いものであれば、必ず、仲間が集まるのです。「お人好し集団」が集まるのです。そして、出来上がるのです。だから、手を挙げて見えて、繋がる。そして、「良いね。」という人が集まる。その縮図が仙台にはありますね。

石田
それは、まさに結びあっているというか、繋ぎ合っていますよね。先程、申し上げたように、それが、回りまわって、どこに回りまわって落ち着くのでしょうね。ぐるぐる回っているのでしょうね。でも、回っているところが結び合っているのでしょうね。

渡辺
皆が成り立っているので、損はしていないようです。循環しています。

石田
損得を考えたら、そのようなことにはならないね。昔の“こうだ“とか、そのような考え方と同じで、損得ではなくて、余裕があって、思う人が自分の力の範囲で結び合うという繰り返しなのでしょうね。素晴らしいことだと思います。この殺伐とした世の中で、そのようなものが残っている仙台が凄いなという気がしますね。涌井先生の言葉も凄いけど、「仙台のお人好し集団」。これは、あちこちで使わせて頂きたいと思います。どのくらいの集団なのでしょうかね。

地域の繋がり-文化的価値をつくる-

石田
小黒さん、もう少し、視点を広げて、グローバルということも含めて、色々な地域の繋がりのような話を頂けますか?

小黒
私は、昨日、仙台入りしまして、三菱地所の偉い方に「泉パークタウン」を見せて頂きました。「君、仙台に来たのは、何回目なのか?」と聞かれたのですが、例えば、メディアテークが出来たことは知っていたのですが、仙台を取材したくないのですよ。渡辺さんの話を聞いていて、気がついたのですが、ですね。私は、世界で街を取材するときは、闇の表情も取材するのですよ。男の人って、売春街でなくても、誰が居るかよく分からないような怪しい所に惹かれるのですよ。それが仙台のイメージに無いのですね、闇が。東京の人にとっては、青葉城のイメージや渡辺さんが言っていたように、川がゆっくり流れているとか、イメージが長すぎますよ。東京の私達は、常に新しいものを追う人間なのです。ですが、仙台のイメージは、変わらないですよね。折角、このような建物が出来ても変わらない。私は今朝、結構早く、この建物の中に入ったのですが、一個発見したことがあります。図書室に行ったら、結構、怪しい人が多いですね。新聞や雑誌を読んでいる人が、私の好きそうな怪しい人が居るのですよね。だから、やはり、そのような怪しい人がここに来るというのは、そのような人達が集う場所が無いのかなと思います。闇のスペースという所が無いのかな。先程の涌井さんの話だと、感性の問題ということですが、結局は、仙台をどうしたいかということで、常に、全うな人の意見も大事ですが、雑誌屋としては、サブカルチャーと呼ばれる江戸の時代だと数奇屋物のような、はしゃぐような、ジャズぐらいじゃない、もっと激しいものにしないとね。新しい景観計画が施行されるので、新しい人種というか、そのような人が出てくれば良いのかな。宮城大学からでも良いですけど。東北大学は真面目そうなので、出てこないな。その為には、一層、外国人をどんどん呼び込んで頂きたい。最近は東京の大学も随分、留学生が多いのですが、白人じゃなくて、オバマが出たのですから、アフリカから沢山、留学生を呼んで、街の遺伝子に少し刺激を与えて、揺さぶるようなことが立ちの悪いマスコミとしては必要じゃないかなと思っています。仙台は、イメージとして刺激が足りない。すみませんが。刺激が無いというか、東京まで、発信力が届いて来ないと言えば良いのですかね。

石田
適度な大きさで、家までぐるぐる回っているのかもしれないですよね。その辺も含めて、もう一つお伺い致します。例えば、先程、素晴らしい街だとおっしゃったデルフトやアフリカをそのような目で見ると、ネガティブな部分はあるのですか?

小黒
デルフトは、吹き溜まりの町でありましたし、ナイロビは凄いですよね、先生。世界最大と言われるスラムがあって、今や、何故か、日本のタレントの方々はエコやボランティアに目覚めて、MISIAにしても、藤原紀香にしても、皆、ケニアに来ると、凄く不思議なのです。昔、渥美清や、いかりや長介のような方々はケニアが好きだったのですよね。この人達は、私がホテルを建てたマサイマラという国立公園に来て、動物を眺めていました。ところが、今や、日本で活躍している女優達は、いきなり、ナイロビのスラムに行って、ボランティアをやるのですよ。全く、価値観が変わっている。多分、彼女達は感じているのです。日本において、そのような危険な所とか刺激される場所は、画一化されて減ってしまったのではないでしょうか。果たして、行政がやってらっしゃるシンポジウムで、私が「怪しい場所を造れ。」というのは、良いことかどうかわかりませんが。仙台のおかあちゃんが怖いのかな。女が強いのかな。私達にとっては、取材に向かない街なのですよ。

石田
好奇心が刺激されないという言い方なのですか?それとは違う?

小黒
それで良いのではないですか。渡辺さんが挙げて頂いた「とっておきの音楽祭」や「ジャズフェスティバル」は素晴らしいですよ。それはそれで良いですよ。それとは別に、街には幅が無いといけませんね。あと、市場が無いことです。このような商売をやっていると、編集部というのは、青山や代官山だとか、ファッションの洒落た所に造るのですが、そういうのは大嫌いで、築地の市場の端っこに編集部があるのです。私にとっては、人が行き交う場所というのかな。しかも、皆、価値観がバラバラな場所。先程、涌井先生が言っていた多様性ですよね。要するに、景観協議会の方々も14社、お集まり頂きましたが、昔だったら、その人達が一つの価値を決めて、頑張りましょうということだったのです。今は、違うのですよね。それぞれの思いで、支え合って、新しい仙台を創るとおっしゃっていたように、仙台には、自己主張が感じられないのですよね。

石田
人間臭さのようなところですよね。政宗公以降とでも言ったら良いのでしょうか。梵天丸以降、歌舞く部分は見せてもその土台となる部分はしっかり残しておきながら、なかなか見せないという生き方かもしれないなと思います。5年前に来て感じることは感じる。なかなか見せない。そのようなことはあるのですね。と、僕が勝手に決めちゃいけないですが。涌井先生、いかがですか?

涌井
改めて、景観計画というのは何なのか?ということを、もう一回考え直してみますと、都市は、石田先生と小黒さん、渡辺さんからも話があったように、「もの」が都市をつくるのではなくて、市民の合意形成を前提にした最善の景観計画を定め、それを舞台に、大いなる「こと」を作る。つまり、物事ではなく「事物」の世界、「こと」から始まり、「もの」に至る世界をつくるということが非常に重要なのだと思います。つまり、カルチャーです。例えば、千利休以来、今日に至るまで、何故、茶道が廃れていないのか?。利休が切腹してもなお、その利休が好んだ「型」つまり利休型を未だ千家十職という方々が踏襲している。この利休型には絶対、変化がないです。ところが、その一方で「好み」というものが在ります。「~斎好み」などと呼ばれています。折々の時代の当代の宗匠の「好み」をも、利休型と並行して存在させるのです。つまり、「型」と「好み」の両方で、伝統と変化を支えあっている。それをお茶の世界では、不易と流行と詠んでいることはご存知の通りです。伝統に、時代を投影したデザインを常に加える。これがお茶の世界の凄さですね。実にバランスが採れた世界だと思うのです。景観計画の真髄もこの不易と流行のバランスに似たところがあります。変化を砂あせてていけない存在である不易の部分については、きちっと保全のルールを作りましょう。その揺らがない不易の上に、時代を投影した流行を重ねる。しかもその流行を、地域遺伝子から決して掛離れた姿にはさせない。それ故に、その二重構造が決して奇異でなく、むしろ新鮮な都市のダイナミズムを感じさせる。予定調和ではなく、伝統と変革のバランスが取れた姿を目指す視点を大切にすることがより良い景観計画である気がします。例えば、「京都の南禅寺」。室町時代からの歴史的文化景観溢れた境内に、明治のはじめに造ったレンガのアーチ型のインクラインがある。全く異質の機能でありながら、今、誰が見ても、それを奇異に感じない。相互が程々の緊張関係を生み出し、「型」と「好み」、つまり、不易と流行が実に調和を見せている。いま一つ、勇気をもって流行の先端を担う、サブカルチャーを育てていくことも重要です。仙台の場合には、良くも悪くも安全な予定調和だけに終わってしまうところがある。まあ、ひょっとするとそれは、ご維新の時のトラウマ、つまり奥州列藩連合の中心に仙台藩が位置していながらで、戦うか戦わないかという結論を主体的に決め切れなかったことに起因しているのかなぁとさえ思うことがあります。こうした維新の挫折感を未だに引きずり、それが結果として、仙台をして、面白いまちというより、行儀良いまちを形造ってきたのではないかとも思えるのです。京都があれ程大胆な京都駅を受け入れたという背景には、「まぁよろしいのでは。斬新ですねー。でもこんなデザインの京都駅が出来たって、そう簡単に京都の本質は変わらしまへん」という自信の表れに見えるのです。そのような自信を仙台の皆さんにも持って欲しい。そして、不易としての景観構造をしっかりとこの景観計画で打ち立て、その懐に、ちょっと怪しげな部分があっても、時代を先取るサブカルチャーを育てていく。そのような前向きな仙台を皆さんで育てる舞台を造ることが景観計画の大きな機能の一つという気持ちになることも凄く大事だと思います。

石田
素晴らしいですね。有難うございます。会場の皆様からの質問に入りたいと思います。もう一巡、お話をして頂きます。いろんな個として、あるいは、総体としてどのような切り口で景観づくりに取り組むのでしょうか?ということをお伺いしたいと思います。
渡辺さんは、大好きな仙台をまだまだ、景観資源を活かした、より素晴らしい仙台にしたいと思っていると伺いました。ご説明をして頂きます。
小黒さんは、「ソトコト」の基盤に流れているものですが、ライフスタイルをベースにしたお話を伺いたいと思います。まさに、景観は文化的価値をつくることで、繋ぎ合うということだということですが、それには無論、ライフスタイルというのは大事なことです。ただ、今、ライフスタイルというのが見えなくなっている。そのようなことも含めて、これから、取り組もうとしている新しい景観施策に刺激を与えて頂きたいですし、涌井先生にもお話頂けたらと思います。

輪になれば文化になる-懐かしい未来は杜の都にあり-

ながめ余興場(群馬県)(JPG:74KB)

渡辺
建物と人との調和という点でお話させて頂こうと思います。群馬県の大間々という町でして、今はみどり市になりました。余興場という芝居小屋なのですが、このような形で綺麗になって活用されています。昭和12年に建設された芝居小屋でして、時代の流れとともに、閉館に至ったのです。十数年前に、なんとかしようということで、3~40人の市民と行政の人達による委員会が作られました。「閉まっている“ながめ余興場”を取り壊して、市民文化センターかホールを造ろう、ホテルを造ろう。」という話があったのですが、その中の数人の方が反対しまして、今も、町に居る大正生まれの人や皆の思い出のある場所だから、その思いを繋げていきたいということになったのです。地元の赤城駅という所では、赤城駅と浅草が一本の東武線で結ばれているので、浅草のニューオリンズジャズを呼んで、コンサートをしました。ラジオに投書をしたり、様々な動きの中で、町の人を巻き込み、いろんなイベントを企画しようという話から、流れが変わってきまして、このように再生されました。
私は、ここで公演するときに、この舞台を踏んできた旅芸人の人達やいろんな表現者のスピリットを肌で感じまして、本当に、身震いをする思いで朗読のステージに立ったことを今でも覚えています。古い建物を残すことが良いとか悪いとかではなくて、その建物が歩んできたストーリーがあって、また、そこに更にストーリーが出来ていくことで、群馬県の「ながめ余興場」から教えてもらったことは大きいなと思いました。
そして、仙台の話題に戻りますと、去年8月に長町の「びすた~り」という古民家を改築したレストランが出来ました。材木屋さんの自宅であった所です。私はここを運営しているNPOの理事を務めていまして、障害を持った方11人と一般のスタッフが働いています。材木屋の自宅であった為、梁がしっかりしていて、ゆったりしているのです。グランドピアノを寄贈してくれる方がいて、コンサートを開いたりしていまして、初年度は、びっくりするほどの黒字で賑わっております。120年の建物の歴史とドラマがあります。そして、障害のある人もない人も、皆で一緒に働いています。「びすた~り」というのは、ネパール語で、「ゆっくりゆっくり」という意味でして、ゆっくり、自分の頂点を目指していくという、その理念が建物や働く人々と調和し、お客様をよんでいます。
そして、最後になりますが、「蔵deひなまつり」を行っている「粋々まちなかプロジェクト」でして、「仙台市景観重要建造物」の指定の蔵を活用してイベントを行っています。南材木町にある「旧丸木商店」です。天明元年に造られた仙台市最古の蔵です。ここを活用して、ひな祭りを開いています。
こちらは「旧仙南堂薬局店」さん。大正元年に造られた蔵で、雛人形を飾ったり、カフェを開いたり、講座を開いたりなさっております。ひな祭りは、皆さんが楽しめるようにして欲しいものですが、一番は、その建物の存在を知って欲しい、気づいて欲しいという願いが根底にあります。単に、ノスタルジックに浸るのではなく、ドラマがあり、ストーリーがある場を大切にしたい。そのストーリーを受け継いでいくことに、町としての一つの骨格が出来ていくのではないかなと思います。何かを物語っていくことを大事にしていきたいと思います。ただ、古いものを大事にすることが良いということではなく、街とのバランスが凄く大事で、新しいものと古いもののバランス、自然と街並みのバランスが取れていくことが大事なのではないかと思います。このように、取り組んでいられる方が沢山いらっしゃいますが、本の一部をご紹介させて頂きました。

石田
はい、ありがとうございました。まさに、昔のものをただの懐古主義的視点で見るだけでは駄目だということですね。文化的価値を高めるためには、「このような“古“というものを結んで線にしましょう。」ということと、「その線と線の両端を結んで輪にしましょう。」というような結び合いが出来かかっているということですね。「輪になれば文化になる」というようなアクションが景観やあらゆるものに通じなければいけないと思うのですが、景観を考える上では、大事かなという気がします。
小黒さんには、「ソトコト」をベースとしたライフスタイルや活動の方向、お考えになっていることを先に、お話して頂けますでしょうか?会場から、沢山のご質問を頂きました。小黒さんには、皆様のご質問を2つぐらい纏めさせて頂きました。一つは、「“杜の都”と言われているが、本当に、“杜の都”なのか?名前負けしていないのか?」という質問です。「“杜の都”というと、名前負けしていませんか?それから、“杜”というのは感じられるが、“森”には、勿論、水が無いと育たないのですが、水辺の感覚って無いですよね。そのような“森”は、感じられるが、“水辺”が感じられないということは、どう思われますか?どのように、お考えですか?」という質問がありました。小黒さんにお願い致します。

小黒
「杜の都」というのは、東京の人から見れば、仙台にはぴったりなキャッチコピーかなと思います。「水辺が感じられない。」というご意見がありましたが、「杜」というのは、「木」辺の森だと「鎮守の森」だと想定しますよね。その「鎮守の森」には当然、水源があります。そこには滾々と綺麗な水が沸いていると思うので、決して、「杜の都」という、うたい文句は悪くないなと思います。ただ、先程から何度も言っているように、「東京から取材なんか来なくても良いよ。」と言われたら、それまでなのです。
昨日、案内してくれた三菱地所の偉い方には観光客が欲しいようなことがあるので、人が来るには東京からでもなくても、近県からでも良いのですよ。やはり、若い人達でないと、仕方がないのですよね。若い人がこの街から、一回出て行っても良いですが、必ず、帰ってくるようなまちづくりにならないと、折角の景観計画がもったいないなと思います。良い根は、渡辺さんから聞いていた面白いことが随分、出てきたなと思います。仙台の価値観が東京のメディアには届いていないのではないのです。「懐かしい未来」という言葉に惹かれています。六本木ヒルズやミッドタウン等、いろんなビルがニョキニョキ建っていますね。代官山や多摩川、涌井さんが造られた東急沿線の白人に憧れた田園都市線のような地域があるのですが、私達はなんの興味も無いのですよ。むしろ、「日本人は、結構、粋じゃん!」というような、下町の浅草や両国ですね。自然と優れた感性、豊かなイメージがまだまだ残っている。どうやら、人間が舵をそっちに切り始めたのですよね。それには、仙台がぴったりかな。「長町びすた~り」は、まさに、「懐かしい未来運動」の一環なのですよね。古いものを線や輪にして、仙台で「懐かしい未来運動」が景観計画施行と共に始まったと言われると、面白いことが始まってそうだなと思う。ですが、既に、そのようなことが行われていることを今日、実証してもらえたので、それが今日の感想です。

石田
会場からのご質問で、「“杜の都”は名前負けしているのではないか?」ということに関しては、「外から見ればそうじゃないよ。でも、押しは少し足りないよ。」ということですね。「“新しい未来”は“懐かしい過去”にある。」ということをうまく言うと、“懐かしい未来”。逆ビジョンというのですね。ビジョンというと、いつも無から何かを生み出そうとする。でも、そればかりやって、結局、私達は道を誤り、地球環境を犯したのではないか?と気づく。実は、少なくとも、私達は精神的に、もっと豊かな暮らしをしていたのでしょう。そのようなものをもう一回見直して、作り直して、決して、「回顧的な過去が良かった。」ということではなくて、新しく紡ぎ合うということなのだろうと思います。それで良いですか?いけますかね?「懐かしい未来は杜の都にあり」使えます?

渡辺
小黒さん、使っちゃって良いのですか?

石田
懐かしい未来の心は杜の都にあり。ありがとうございます。
それでは、涌井先生、もう一つ質問にお答え頂きたいと思います。「自然との共生や循環系の維持が出来るような街に仙台はならなければいけないのだろう。その為には、どのようなことをしたら良いのだろう?」という会場からのご質問がございましたが、お願い出来ますでしょうか?

仙台風をつくる-自然との共生-

涌井
物理的に言うと、どのようなシステムを構築するのか?ということになるのです。例えば、江戸時代、江戸の町民地では、ヘクタール当たり876人も住んでいたのです。江戸川柳にやや尾篭ではありますが、「大家は店子の糞で持ち」というのがあるのです。下肥を売ったほうが大家にとって、店賃を貰うよりは遥かに大きい収入になった。その下肥は、結果として米や野菜に循環するというようなシステムが出来上がっていました。このようなシステムは江戸ばかりではなく、ここ仙台も当然そうしたシステムを共有していました。こうした都市の思想は、近未来への課題、都市が生み出す内部不経済、例えば下肥のような都市が生む廃棄物のようなものをただ外部化する。つまり、廃棄するのではなく、それを再び再循環させるというシステムを作れるかどうかという課題を解決する為の答えに繋がるのです。いま一つ、都市ほど生態系サービスを浪費しているところが無いのです。地下資源に依拠した文明は近い将来限界がやってきます。それ故、みどりを媒介にしたそうした都市が生み出す内部不経済を都市自身が循環させ、都市外に、環境負荷をもたらさぬ覚悟が必要でしょう。此処、仙台の近くでも、漁業者の方々が牡蠣を美味しくする為には山に木を植えなければいけないと立ち上がり、「海は山の恋人、川は仲人」と認識し、循環系を再現している姿に学ぶべきでしょう。縦貫と共生の関係に都市を位置づけるという方向は、世界的なテーマなのです。その世界的なテーマを実現できる場所、奥山も里山も都市のま近に存在し、循環と共生を直にでも果たせる可能性がある都市はそう多くは無いのです。先程、「泉パークタウン」の話が出てきましたが、昔は、泉と仙台とは違う場所だったのですよね。それが、今は、開発圧によりなんとなく繋がってしまったという嫌いはありますが、まだ、それでも里山の原像が残っている。我々の言葉で言う、「コア、バッファ、コリドー」というネットワークがまだ可能なのです。「バイオリージョン」というのですが、都市を取り巻く外周に、都市と自然が共生できる姿を、景観計画により、もう一歩描き出す必要があるのではないかと思います。そうした姿を景観計画により描き出し、都市の廃棄物の問題とうまく絡めたシステムが構築できれば、仙台は世界に誇る「生態環境都市」になると思います。そうした技術とシステムの開発を、学都仙台なのですから、多くの大学と一緒になって、「バイオリージョン」実現の為に努力していただきたいと思います。それが出来る政令都市はそう多くはないと思います。世界のモデルになる可能性は非常に大きいのです。
もう1つ、質問とは関係ないことですが、仙台の景観計画の中で、特徴的なのは、市民が共有するランドマークへの主要な視座からの眺望阻害を可能な限り防ぐという試みです。そうした観点から一つ考えてみたいことが在ります。司馬遼太郎の世界観は、いわば鳥の目です。歴史のうねりを、高みから見つめ、その下で時代を担う象徴的人物を選び出し、時代を描き出しています。こうした見方も大事ですが、それと対照的な藤沢周平の視点は、虫の目からでしょう。藤沢周平は、等身大の登場人物の一挙一投足から、歴史を描いていくのです。何を申し上げたいのか言えば、これからの街は、司馬遼太郎と藤沢周平のマッチング、つまり、虫の目と鳥の目の双方からその未来を描き出す必要があるように思います。景観には囲繞景観、つまり、自分の周りを取り囲む景観と眺望景観という2つの要素があるのです。自分が草原の何も無い所から見る山の見方とジャングルの中から見る見方と眺望対象の見え方は全く違いますよね。景観というのは視点場の条件と対象の関係によって、全く印象が違うものなのです。これをマッチングさせていく。つまり、青葉城から眺めると司馬遼太郎の気分になって、ケヤキ並木に居ると、藤沢周平のような気分になる。そのようなわくわく感と落ち着きの双方が共存する奥的なまちに仙台の未来が形成できると嬉しいと思います。

石田
本当に素晴らしいですね。視点を変えて見ることは、ランドスケープや造園の世界において、日本では、どちらかというと、虫のほうなのですか?

涌井
これが違うのですよ。ヨーロッパの庭園は、神様になりたいが故に、上から見下ろす庭園ばかりです。ベルサイユ宮殿でも何でも。だから、人間の姿で見ると、全体の像が見えてこない。ベルサイユ宮殿を歩いたら、しんどいですよ。馬車のスケールです。神から託された王様の目線です。ところが、日本の庭は違うのですよ。見上げる形式の庭造りです。ですから、庭園の遥か彼方にあるランドマーク、例えば嶽などを如何に庭に取り込むかと言った借景を考える。双方の見方、取り分け視座が違うのですよ。見下ろす姿と見上げる姿。見方が違う。これは日本と西洋の違いなのです。此処から読み取れるのは西欧では、自然は人間の充足物だという考え方です。我々、日本人はそうは考えません。あくまでも自然の一部が人間であると考えてきました。先ほどから申し上げている通りこれからの都市や、我々の生き方は自然とのより良い共生関係の復権です。庭園にもこうした見方を持つ、私達日本の出番だと思います。

石田
そのような庭の造り方の違いは、やはり、心持ちが本質的に違いますか?

涌井
違います。日本の造園は、心象の展開を大切にしています。心理学的に出来ているといっても良いでしょう。「シークエンシャル(時間軸に沿った連続的景観のストーリー)」です。串団子を考えて下さい。団子に相当する見せ場を、歩経路を辿って、次々、見せ場としてのシーンを楽しむ。例えば、池の周りを辿る庭園を「自然回遊式」と言います。池の役割はゼロの空間です。各々の見せ場で、「なるほどだな。」と思って、その印象を持って、次の見せ場に行くと、前の印象が残るから、新しい感動が薄れます。そこで、一旦、池を見せる。そうする事により、印象がクリアになるのです。実に、うまい造り方をしています。もう少し、面白い話をしますと、茶室です。外路地は歩き易く作ります。中潜りの門を潜ると、多少歩き難い飛び石に変わっていきます。茶室回りに行くと、さらにわざと乱した飛び石になります。飛び石から踏み外さないように集中するので、姿勢が自ずと低くなり緊張感が高まります。そして最後に、にじり口から身を縮めて茶室に入ります。つまり、大きい身の丈や態度の人も茶室に行くに従って心や身を自ずと縮めることになりますよね。そうして身をかがめて、狭いにじり口から入ると、狭い二畳がもの凄く広く感じる。実に、心理的を操り、物語性のあるシークエンシャルな空間を構成しているのです。私は景観とは、ある種のマインドスケープという心理的な効果を重視すべきと考えてきました。それは、こうした日本の伝統の中から学んだものです。それ故に、時には司馬遼太郎の世界、時には藤沢周平の世界で、仙台のまちを景観で魅力的にすれば、心地よい楽しい街が実現できると思っているのです。

石田
そのようなきっかけが仙台には何かあるのですよ。条件にも恵まれていて、皆でどのような仙台風を創るのかという「風(ふう)」の了解ができたうえで、共通認識ができれば、可能性は高いと思っています。もう、点ではなく、線ぐらいにはなっているわけですから・・。ありがとうございます。
小黒さんと涌井さんには最後に締めの言葉を頂きたいと思います。涌井先生には、最後に、ご質問へのお答えをお願いします。「今後、どのような景観を目指すべきか?」という質問でして、最後の締めと一緒に先生お願いできますか?
渡辺さん、今の質問を含めて、最終のまとめに入ろうと思います。非常に、良い議論が出来たと思います。渡辺さん、今日の感想も含めて、何か一言頂ければと思います。

まとめ

渡辺
今、涌井さんのお話の中で、「日本の時代だ。」と、伺いまして、仙台の時代だなと感じています。ちょっとワクワクしております。400年前、世界に目を向けた政宗公の成し得なかった思いを仙台から発信できたら良いなと思いながら伺っておりました。
私は、言葉の人間なので、言葉の話と絡めてお話させて頂きます。日本語は、「あいうえお」という母音でできている言語です。この母音を主体に言語認識としている民族は、大変珍しいと言われていて、この母音を言語脳で認識する民族とは、自然の音も言語脳で認識するという珍しい種族だそうです。自然が私達に語りかける。自然と結び合うレベルが高い日本人は、庭を造るときにも自然を排除しないで、調和を好みます。他との境界を作る民族とは違う何か特異なものを発信できる民族ではないかと思います。私は、言葉のレベルでそこを伝えたいと思っていますし、「杜の都・仙台」から世界に向かって発信したいと思います。

石田
ありがとうございました。それでは、小黒さん、お願いします。

小黒
環境雑誌を思い立って作ったのは、10年前です。当時、環境問題は、各会社の総務部のようなところが仕方なくISOの何千を取らなければならないような非常に窮屈なテーマだったのです。私は、環境は金になるのだと思いました。エコは金になると思って、環境雑誌「ソトコト」を出したのです。最初はなかなか分かってもらえなかった。3年経っても、全く手応えが無い。唯一、広告を入れてくれたのは、カルティエやルイヴィトン、ブルガリ等のブランドの人達でした。当時から、ヨーロッパの環境問題が新しいビジネスの市場の窓口のような評価があったのです。
愛・地球博で涌井さんがランドスケープの総責任者で、愛・地球博が始まったときにも、私はへそ曲がりですから、「なんだ、愛・地球博は環境学だと言いながら開発しているだけじゃないか。」と、冷たい目線で見ていたのですが、私は運動部でもありまして、手伝いを始めてしまいました。このようなことで、愛・地球博で、環境やエコに対する考え方がちょっと変わったのです。愛・地球博は、「未来は明るい」というメッセージだったのです。「温暖化も新しい技術でなんとかなるよ。」とか、「新しい光がエコの環境の時代でも未来は明るいのだ。」という意識の転換が愛・地球博だったと思います。今は、あっという間に、ガラッと変わって、テレビのタレントさんまでもエコバッグやマイ箸という時代ですよね。誰も価値観の転換に差し掛かっていることに気づいていないですよ。我が民族の日本の男子を見ていると、全く元気が無くて、「景観なんか考えている暇は無いぞ。」という感じがして、元気を注入しなければ、新しい日本は無いという位、危機感を持っているのです。ですが、仙台の人は気さくで、明るい人達だなと思いました。私は、刺激が無いと言わずに、折角、今日、渡辺さんに数々のちょっとしたヒントを得たので、仙台の懐かしい未来化計画をお手伝いしていきたいと思います。
今日はどうも有難うございました。

石田
特に、景観計画の一つの中で、価値を見出すことは、とても刺激的なことですし、点を線にして輪にしていくということが一つのアクションになるということも分かりました。
空間とは一つの重なりであるということは分かっていたのですが、自然や歴史、街並、生活やライフスタイルを合わせた風景というのは景観であり、人の心に刻まれる風景だということが分かりました。でも、「これはどのようにしてつくるのだろう?点を線に線を輪にする為には、どのように造るのだろう?」と先程からお話を伺いながら考えていました。それから、「アピールするには、何が足りないのだろう?」と考えていて、「私たち自身、仙台に住んでいて、生活している者にとって、そして、地方や違う街から仙台に来る人達にとって、私たちが残さなければいけないものとは一体何なのだろう?」ということです。昔あった私達が残さなければいけない自然や歴史文化、町並み、生活。生活というのは、祭りや人の活動ですが、そのようなものをきちっと見つめ直すことが一つの答えを創るのだと思いました。
今日は、どうも有難うございました。涌井先生、最後に、全体のまとめをお願いします。

風景を育む-景観への挑戦-

涌井
景観や環境は、ただ存在するのではなく、人々との応答関係により作られていくものです。人々と自然や文明の事物が相対的に影響し合って形成されるという事実を忘れてはいけません。仙台市の景観条例は、日本でも最も先端的な条例となりました。あの巨大な東京都ですら、いよいよ眺望景観規制に取り組むことになりました。心を託し安心できる環境、見える環境が景観です。そう考えると、仙台市民は仙台という風土の子供といっても良いでしょう。風土は、仙台市民共有の心の資産であり、それを前提とした、仙台の都市像を景観計画というルールで鮮明にしていくということです。したがって、それには市民の合意形成が非常に重要なのです。
ところで、私は、真の民主主義を、今、生きている世代だけの現世価値だけではなく、墓場の中に居るご先祖や、まだ生まれぬ子供たちのあるべき環境をも投影した思想の延長線上にあるべきと考えています。この3世代に跨る通底した価値観への想像力が景観計画には重要です。過去と未来を景観計画に投影する努力を重ね、新しいライフスタイルとしての「風」を醸し出すべきでしょう。その「風」が加わることにより、景観への挑戦が風景になり、やがては過去と未来をつなぐその土地特有の「風土」が承継・形成されていくものと考えています。景観・風景・風土の文脈が断ち切られず、滔々とした流れを常に見出せる。そのような仙台の都市像をぜひ、皆さんの力で実現して頂きたい。仙台には、この環境、取り分け、景観こそが創造的事業環境の母体になると、大阪から本社を仙台に移された企業も在るのです。このような状況が生み出されてくれれば、仙台は厳しくなる国際間競争の中で、必ず生き残ることができます。
私達は、つい目前の経済活動に目を奪われ、地域固有の自然や景観を大切にすることに背中を向けがちです。しかし、環境革命後の世界では、むしろ、背中を向けるどころか、相互に繋がり合うことが求められるのです。先進国では、新しい産業は、環境や感性に訴えかける産業が主流となります。その産業の母体となる可能性が、現に先ほど紹介した企業がもう仙台を選択したという事実を誇り、更に、そうした方向を強化することが重要でしょう。そのようなまちづくりが出来れば、仙台の経済的な活性化と景観や環境へのルール化が矛盾するものではない、近未来のシステムを仙台が先取りする事に繋がるでしょう。
私が常に標榜しているキーワード「景観10年、風景100年、風土1000年」という意味をお考え頂き、仙台という壮大な歴史の1ページを、見える環境であって、過去から未来に繋ぐ環境への決意の表情である景観から皆さんに描き連ねて頂ければ幸いだと念じております。

石田
それでは,これでトークセッションを終了します。

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