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更新日:2022年10月4日

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仙台市中央卸売市場(市場の歴史)

本場の歴史

(1)仙台における「いちば」のはじまり

河原町の青物いちばの写真(JPG:46KB)
河原町の青物いちば
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広瀬橋を渡って市内に荷が運ばれている写真(JPG:43KB)
広瀬橋を渡って市内に荷が運ばれた

仙台における生鮮食料品市場の歴史は伊達政宗の仙台開府の時が始まりだといわれています。今から約400年前の慶長6年(1601年)の夏に岩出山から仙台に移り城下町が完成したので、士民を岩出山から移しました。仙台城下は、戸数約10,800戸、人口52,000人と大規模な城下町で食料の確保は大きな問題でした。大名の国替えには町人も同時に移るのが建前であり、伊達藩には御譜代町として大町、肴町、立町、南町、荒町、柳町の商人町が形成されました。
伊達家は常陸真壁郡から東北に移り、今の福島県の上保原、梁川、桑折と居城を移した後、米沢、岩出山を経て仙台の地を永住の地と定めたので、この商人町は実に伊達郡時代からお供をした伊達御供の町とも御譜代町ともいい、他町に比べて格段の優遇をうけ商業を保護されていました。肴町は鮮魚・塩干魚・その他海産物、南町は八百屋物、立町は米穀、荒町は麹の専売を与えられ、その中で肴町は五十集(いさば)問屋相勤めた町で仙台開府以来連綿として継続してきた町でした。
河原町は政宗公の晩年、仙台城下南地域のいわば第2次の城下町整備計画によって寛永6年(1629年)のころ出来た新興の町人町でした。この附近の東と対岸は仙台領内きっての野菜の生産地として知られ特に小泉の茄子、郡山の大根、根岸の芹、日辺のネギは領内の名物番付に載るほど有名な特産品でした。それらの村からかつぎザルや手車で行商のため城下に運ばれ、河原町の路ばたに荷を下ろしていっぷく吸うのが毎朝の習慣で、そこで自然に野菜を求める城内の町民と取引が行われるようになりました。河原町の朝市の起源ははっきりしませんが延宝3年(1675年)にはその特権のことが見られることから、何れにしても肴町と河原町は300年にわたり市民の台所としての役割を果たしてきました。
長町市場は明治20年頃、当時河原町市場と生産人との話合いにより、長町には市場を設けないとの取り決めがありましたが、河原町市場に上市、下市とに分立の事態が起り、これが一つの機会となって一部生産人は阿部太平氏と図り名取青果物市場として開設が進められ明治25年に県の認可を得て開市しました。その後、昭和3年に宮城県食品市場規則の改正により1市1市場に規制されたが、存続のため産業組合法に基づく方法を見つけ、有限責任農産物販売組合の名で維持経営を継続した。その後、太平洋戦争の時代は青果物荷受株式会社として営業し、戦後宮城県経済農業協同組合連合会により長町市場として開設しましたが、昭和36年12月仙台市中央卸売市場青果物部入場後は、2ヶ年間の期限付で分場として当市場発足と同時に市に引継がれ昭和38年12月1日に閉場しました。
東七番丁の魚市場は、昭和17年に東洋製罐仙台工場跡に建てられ、統制時代から統制解除までの変遷期を経て昭和35年12月の仙台市中央卸売市場に水産物部が入場するまで続きました。

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(2)中央卸売市場法の制定

中央卸売市場を開設する根拠となる「中央卸売市場法」が制定、公布されたのは大正12年(1923年)3月のことでした。
これより先、政府においては大正元年(1912年)に市場法の試案を生産調査会に諮問し、慎重に検討を続けていましたが,第一次世界大戦が拡大するとともに我国の経済は異常な好景気に恵まれ、その反面、物価の高騰と大衆の生活難は大きな社会問題となったので、政府は「暴利取締令」をもって商人の暴利を抑制しようとしましたが、社会不安はますます増大し遂に大正7年末全国にわたって米騒動が起こり農産物流通の見直しを迫るきっかけとなりました。このため、6大都市をはじめとする各地で公設小売市場を設けて社会不安の緩和に努力しましたが、この公設小売市場の機能を充分に発揮させるには、そのもととなる中央卸売市場を開設すべきであるという意見が強くなり、これが直接のきっかけとなってようやく中央卸売市場法が制定、公布されました。

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(3)仙台市中央卸売市場の開設と設立経過

中央卸売市場建設促進協議会会議の写真(JPG:22KB)
中央卸売市場建設促進協議会会議

先行して建設された製氷冷蔵庫の写真(JPG:32KB)
先行して建設された製氷冷蔵庫

完成間近の引込線の写真(JPG:41KB)
引込線も完成間近

開場を待つ仙台市中央卸売市場の写真(JPG:31KB)
開場を待つ仙台市中央卸売市場

仙台市中央卸売市場の建設の計画は昭和5年頃から考えられ、昭和6年1月中央卸売市場法に基づき農林大臣より指定区域の指定を受けて、建設計画を立案、種々調査等を進めていたのであるが事変や戦争のため、一時中断しなければなりませんでした。
戦後、本市の急激な人口増加と非衛生的食品の乱売、あるいは民間市場の施設の不備等から再び中央卸売市場設置についての要望が高まり、再び中央卸売市場建設計画が復活することになりました。昭和22年の仙台市の都市計画とあいまって、日本国有鉄道が仙台駅から貨物取扱いを分離し、宮城野原旧練兵場に仙台駅貨物駅を設置することを決定、昭和24年6月仙台商工会議所会頭を会長とし民間魚市場、青果市場その他生鮮食料品販売業者の代表者23名をもって中央卸売市場建設促進協議会が結成され、同年8月本協議会から食生活の安定を期せられたいという趣旨の陳情及び請顧書が市議会に提出され、万場一致でこれが採択されました。
本市は当該国有地(宮城野原旧練兵場跡)が市場敷地として最適であるという結論に達し、買収方を東北財務局に折衝し15,128坪を買収することとなり、昭和25年3月3日市議会の議決を得て大蔵省から買いとり、ここに中央卸売市場を建設することに決定しました。
市場建設工事については、その財源はおおむね市債に依存するため、工事の進捗は遅々として困難を極めたが、昭和27年11月製氷冷蔵庫設置第一期事業を施行し、昭和30年8月製氷事業と冷蔵事業の一部の操業を開始した。昭和31年9月農林大臣から仙台市一円としての指定を受け、翌32年2月中央卸売市場開設事務所を設置、たまたま余剰農産物見返資金が本施設の融資対象となり、同年4月から市場の主体工事に着工、水産物関係主体施設は年度中にほぼ完成し、青果物関係主体施設は昭和33年度にその他附帯施設も昭和35年度に完成しました。
同時に附属営業所場内鋪装も一応完成、鉄道引込線も営業線として承認され、昭和36年6月から営業を開始した。これらの建設費として総額約2億8千万円を要しましたが、開場後もその都度基幹施設の充実をはかり、約2億円を投じそのほとんどは市債をもって賄われました。
昭和35年9月22日市議会において、仙台市中央卸売市場設置に関する議案を可決し正式に設置の決定をみたわけであるが、建設工事と並行して卸売人の収容折衝が進められ、その進捗とともに、昭和35年11月開設事務所を廃止し東北では最初の中央卸売市場として発足することとなり、水産物部門については、昭和35年12月4日付けで農林大臣から開設の認可を得て待望の業務開始となりました。
卸売人の収容経過は、昭和32年10月農林省が中央卸売市場における卸売人複数の弊害を認め、新設の中央卸売市場の卸売人は一社でなければ許可しない方針に変わったため、本市においても業者収容の方針を変更せざるを得なくなりその折衝は容易ならぬものがありました。
昭和17年戦時統制化に消費地市場が一本化し宮城県水産物配給組合がつくられ、市内東七番丁に市場を移し宮城県水産配給株式会社が創立されましたが、戦後の統制解除により昭和25年に株式会社宮水魚市場と改められ、強制的に統合された一部業者は、宮城県中央魚市場として別に発足するに至ったが経営不振で解散同様となり、ここに商業協同組合に形をかえた水産物商業協同組合仙台中央魚市場と仙都魚類株式会社が設立されました。
本市は上記3社を収容対象とし単一化の交渉を進めましたが、各社はその内容、営業状態等に各々異なった特性をもち、又それぞれ大資本漁業会社の系列下にあるため単数卸売人の実現見通しがつかなく、結局宮水魚市場と中央魚市場が合併して株式会社仙台水産を設立、仙都魚類株式会社はそのままの形で収容することになりました。なお業務規程上は卸売人単数を明記しながらも、当分の間は複数卸売人とすることにした。
仲買人については、昭和31年塩干物取扱市場として発足した株式会社鈴力水産並びに開場に際し新しく発足した株式会社仙台宮水、株式会社大新の3杜を許可しました。
青果物市場は、明治以来幾多の変遷を経て、昭和18年2月名取農産物販売組合と仙台果実組合を合併して宮城青果物配給統制会社を新設して集荷配給に当ったが、昭和20年2月業務一切を宮城県農業会に委譲するに至った。昭和23年9月宮城県販売農業協同組合連合会河原町市場と改め次いで長町市場を併設し、昭和28年7月宮城県経済農業協同組合連合会河原町、長町両市場となりました。
青果問屋においては、河原町市場周辺に加藤商店、山口商店、長町市場周辺に長町市場創設の祖である阿部太平商店、やま平商店、仙台駅前に安藤商店、東三・東四番丁に椿青果、井筒青果、仙台青果市場、東七番丁に東七青果協同組合市場等が卸業を行っていました。
本市はこれらの業者を対象に単数卸売人への収容折衝を続けたが、長町市場残存等の問題を含め幾多の紆余曲折があって困難を極めた結果、宮城県農業協同組合連合会が青果問屋2店を吸収して株式会社宮果となり、加藤、阿部、やま平、安藤、井筒の5店が新たに仙台中央青果卸売株式会社を創立、水産同様青果物部門においても当分の間複数卸売人とすることとし、ついに昭和36年12月8日に分場設置の認可、同年12月11日には卸売人の業務許可の運びとなりました。
仲買人については、地方発送業を主とする業者から10人を許可した。
なお、東七青果協同組合市場は場外市場としてとどまったが、その後の経営が振わず解散した。

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(4)現市場の建設

宮城野原の中央卸売市場の写真(JPG:43KB)
宮城野原の中央卸売市場

当時の水産物部卸売場の写真(JPG:57KB)
当時の水産物部卸売場

青果物部のせりの様子の写真(JPG:40KB)
青果物部のせり状況

車で飽和状態の市場内の写真(JPG:62KB)
車で飽和状態の市場内

開設以来、水産、青果は順調な伸びを示し、昭和40年頃には取扱量は水産、青果とも1.5倍となり、また社会情勢の激しい変化から荷車、リヤカーの時代から車時代へと転換し、昭和43年頃から狭あいが叫ばれ拡充整備計画の検討がはじめられた。
本市は旧市場拡張案、分離案、全面移転案の三案をもとに検討の結果、流通センター区画整理事業がすすめられていた現市場(仙台市流通センター第二工区の現在の市場用地)が最適であるとの結論に達しました。
昭和45年総面積147,962平方メートル(現在の市場用地の3分の2にあたる部分、区画整理事業によって換地された部分)の土地が確保されたが、区画整理の減歩があると農林省の指導規程面積50,000坪を大きく下まわり、新たに買収しなければならず、昭和46年度において追加買収(現在の市場用地の3分の1にあたる部分)し169,144平方メートルの面積を確保し、買収金額は約24億4千万円であった。
用地買収の見通しがついた昭和46年3月に改めて農林省に計画を提出し、また本議会の承認をえて現市場建設がスタートした。
昭和46年5月には、基本構想のとりまとめと場内各団体に対する現市場建設についての意見調整に入り、同年7月末基本設計が出来上がった。

この基本設計の方針として、

  • (1)市民のための施設であることの機能的外見的表現をすること。
  • (2)物流、価格形成、代金決済の三大機能を充分発揮できること。
  • (3)過剰投資の抑制と将来の増設計画を併せ考える。
  • (4)ランニングコストを充分考えること。
  • (5)水産、青果、花きの三部門が機能的に一体化したものであること。
  • (6)市場労働力確保の面から働く場所としての職場環境の整備が図られたものであること。

などをあげ具体化しました。

昭和46年10月に整地工事に、昭和47年7月に本体工事に着工し2年間の工事に入りました。
一方、収容業者については水産及び青果の仲卸業者並びに関連事業者の増員を図るため公募し、水産27社、青果17社が新しく認可されました。また関連事業者は市内の一流問屋31社を収容し、新市場のワンストップショッピングの充実を図りました。
花き部の新設については、市場法の改正によって花き部の位置付けが明確化されたため、入場の動きが活発となりました。市内には仙台生花、中央生花、東北園芸、東北ガーデン、宮城野生花の5社が民間市場としてあり、市内のシェアは仙台生花とその他4杜で半々であったため、卸売業者の収容はその方向で進められ、現市場落成の昭和48年11月までに終了できるよう努力がなされた。
現市場建設は短かい工期、建築資材、労働力の不足、建築資材の価格高騰などの悪条件の中にもかかわらず、建設業者の協力により予定どおり進捗し、昭和48年10月31日竣工、同年11月1日落成式、11月5日現市場移転開場となりました。
その後昭和54年度に第二次整備計画の一環として9,008平方メートルの土地を買収し、さらに昭和57年度に仙台土地開発公社からの土地の引縦ぎ等(計1,601平方メートル)があり、現在の敷地面積(179,753平方メートル)となりました。また、昭和30年8月から、仙台市直営で運営して来た製氷冷蔵業務は、昭和60年9月20日策定の「仙台市行政改革大綱」に基づき、全庁的な行政改革の推進と事務事業の見直しの一環として、昭和62年4月1日から仙台市及び水産両卸会社の三者均等出資による関連事業者(仙台中央冷蔵株式会社)で運営することになりました。
さらに、その後の取扱量の増加などにより場内施設の狭あい化が顕著となったため、本場の総合的な整備を図るために、卸売市場整備計画に基づき平成3年9月に水産物部仲卸売場及び業者事務所を平成4年10月に水産物卸売場をそれぞれ増築し、平成7年3月には、安定した電力確保のために特別高圧受電施設の導入を行いました。

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(5)花き部の移転建設

昭和48年開場当時の市場周辺の写真(JPG:86KB)
昭和48年開場当時の市場周辺

花き市場建設工事の写真(JPG:33KB)
花き市場建設工事

花き部開場記念式典の写真(JPG:50KB)
花き部開場記念式典

花き部は、昭和48年11月5日付けで中央卸売市場における全国初の花き市場として農林水産大臣の認可を受け、宮城野原地区から移転した水産及び青果部とともに現在地で業務を開始しました。
以来、関連事業などの増強も図り、東北の拠点市場としての役割を果たしてきましたが、昭和55年頃から各部とも取扱量が急激に増加したことなどにより、再び本場の狭あい化が顕著となり市場機能の停滞が危倶される状況となりました。
こうしたことから花き部の移転建設計画の検討がはじめられ、昭和56年度から65年度までの10年間を見通した第三次中央卸売市場整備計画の中でも緊急を要する事業として位置付けられ、昭和59年7月に花き部の場外移転建設計画の方針が正式に決定されました。
移転用地は、当初食肉市場南隣の市有地約13,000平方メートルを候補地として検討しましたが、現市場との距離的な問題や面積不足などの理由で不適当とされました。
その後、東北財務局から未利用国有地の買付勧奨があり、本場から約500mの距離にあった旧東京第一陸軍造兵廠仙台製造所跡地26,268平方メートルを選定し、昭和60年3月に19億8千3百万円で買い受けました。
昭和60年5月に花き部移転建設工事の基本設計を開始し、併行して開設者及び花き部業界で組織した、花き部新市場建設専門調査員会を本市場運営協議会の中に設置して調査検討を行いながら、同年10月に基本設計が出来上がりました。

この基本設計の方針としては、

  • (1)現市場の一部であると同時に、将来分場として独立しうる機能を併せ持つこと。
  • (2)昭和70年度を目標にした取扱量、流通形態等に対応出来る施設であること。
  • (3)搬入から搬出までの物の流れが効率的で使いやすい施設であること。
  • (4)管理運営面で経費の節減が図られ、管理しやすい施設であること。
  • (5)高度情報化社会の進展に対応しうる施設であること。
  • (6)日本における花き市場の主導的役割を担いうる施設であること。
  • (7)新しい時代の花き市場としてのイメージあふれる特徴ある施設であること。
  • (8)市民の市場として親しみやすい施設であること。
  • (9)健康福祉都市仙台の花き市場として清潔で明るい施設であること。
  • (10)将来の増築に対応出来る施設であること。

などをあげ具体化しました。

移転建設工事は、昭和61年度からの2か年継続事業として昭和61年5月に着工し、総工費約19健円で昭和62年12月に完成。昭和63年1月14日に新施設で落成式を挙行し、同1月16日から業務を開始しました。

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(6)年次別取扱高

各部門年次別取扱高(PDF:214KB)

各部門年次別取扱高グラフ(PDF:494KB)

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経済局中央卸売市場管理課

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