若林区

更新日:2016年9月20日

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町名に見る城下町

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石垣町(いしがきまち)

荒町の毘沙門天から南に下り、土樋に通じる町。
広瀬川に向かってゆるやかな下り坂となっている。石垣職人の屋敷が置かれたためにこの名がついた。
若林城築城によって城下が広がった寛永5年(1628)頃に取り立てられたと考えられている。

石垣町の地図石垣町の様子の写真

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石名坂(いしなざか)

弓ノ町の南に位置する町。南に向かって起伏のある坂道が続き、藩政時代は「仙台七坂」のひとつに数えられた。
寛永5年(1628)に完成なった若林城造営にともない、町割されたと考えられている。足軽屋敷が置かれた。
町名の由来は、江戸時代にこの地出身の吉原で評判の遊女「石名(本来は「石那」であるともいう)」にちなむと伝えられるが、くわしいことはわからない。町内の曹洞宗円福寺、山門の左手には承応3年(1654)と刻まれた石名の墓石といわれる碑が残っている。また、円福寺には石名供養のために吉原の遊女、楼主などから贈られた600巻に及ぶ経文などが保存されている。
石名坂の南には広瀬川をこえる宮沢渡しがあったため、城下に入るための古い道筋の一つでもあった。
石名坂の様子の写真

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裏柴田町・表柴田町(うらしばたまち・おもてしばたまち)

仙台一高の南に沿っているのが表柴田町、その北側に位置しているのが裏柴田町。裏柴田町は仙台一高によって分断され、東側だけが残されたかたちとなっている。
どちらも寛永10年(1633)前後に割り出され、柴田郡出身の足軽衆169人が住んだところからこの名がつけられた。
足軽たちはこの地に故郷の守護神である大高山神社を勧請した。この神社は日本武尊(やまとたけるのみこと)を祀ったため白鳥神社と呼ばれた。足軽町に祀られた神社は、その地域の人々の強い結びつきの中心でもあった。また、神社には「的場」とよばれた弓の稽古場や「星場」とよばれた鉄砲の稽古場が置かれることが多かった。
幕末に近い安政年間の絵図にはちょうど白鳥神社の場所に「星場」と書かれている。神社はいまだ町内の人々の信仰を集め、祭りも行われている。
表柴田町、裏柴田町の地図

表柴田町の様子の写真

表柴田町

裏柴田町の様子の写真

裏柴田町

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椌木通(ごうらぎどおり)

木ノ下の南側を、表柴田町から東に伸びる通り。
かつて、通りの北東角に1本の枯れた大木があり、根元に大きな空洞があって幣束(へいそく,細く切った紙や布などを細長い木につけ神前に供える飾り)が立てられて紫明神が祀られていた。この空洞がこの地の方言で「ガホラ」ということから、この木が「ガホラギ」と呼ばれ、「椌木」という当て字が使われて通りの名になった。「空虚木」とも書いたという。
元禄時代の地図では侍屋敷が並んでいる。現在、紫明神は木ノ下の薬師堂境内に移されて、周囲はマンションやアパートが多く建ち並ぶ住宅地になった。
東方の鍛冶屋敷地区は江戸初期の名刀工、本郷国包(ほんごうくにかん)が住んだところであり、明治になると宮城集治監(みやぎしゅうじかん。宮城刑務所の前身)の囚人たちの農作業場となり、4代仙台市長となる早川智寛が農場を経営していた。
椌木通の地図椌木通の様子の写真

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五十人町(ごじゅうにんまち)

三百人町と六十人町にはさまれた町で、足軽五十人衆が居住したためこの名がついた。三百人町と同じく寛永7年(1630)前後には割り出されている。
町の守護神として伊達八幡神社が米沢から移された。いまは両側に住宅街が続いているが、間口が狭く奥に深い足軽屋敷の町割は受け継がれている。
五十人町地図五十人町の様子の写真

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三百人町(さんびゃくにんまち)

南鍛冶町から保春院前丁に通じる東西の長い町。足軽三百人衆が住んだためにこの名がついた。寛永7年(1630)には割り出されたという。住んだのは鉄砲足軽たちで、福島の伊達郡に残っていた伊達家のかつての家臣たちだった。慶長5年(1600)、政宗が白石城を攻めた際、戦いに参加し、再び伊達家に仕えて仙台のこの地に移り住んだ。
町内にある信夫神社(しのぶじんじゃ)は、伊達政宗が慶長15年(1610)に足軽たちの出身地である信夫郡(しのぶごおり)の神社を勧請したものといわれる。
神社の隣にある常林寺には明治6年(1873)、のちの荒町小学校となる三百人町小学校が開校した。
鉄道が町を分断しており,昭和初期にはガソリンカーの駅が置かれた。
三百人町の地図三百人町の様子の写真

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清水小路(しみずこうじ)

現在の清水小路は市立病院をはじめ多くのビルが並ぶ通りとなっているが、藩政時代は両側に上級武士の屋敷が連なり屋敷林の樹木がうっそうと茂っていた。当時は「仙台八小路」のひとつに数えられた。
南は田町と荒町、北は北目町に接していて、北に向かえば宮町につながり東照宮につきあたった。
明治22年(1889)、鉄道が開通して停車場が設けられたため、宮町との連絡はたたれた。
城下の人々は「シズ小路」「スズ小路」と呼んだ。文字通り清水(シズ・スズ)が豊かにわき出していたからで、集められた水は道の中央を南に流れ、土樋(現在の愛宕大橋付近)で広瀬川にそそいだ。一部は孫兵衛堀となって荒町方面に流れていた。
また、ちょうど連坊小路に入る角で、南北と東西の堀が直交しており、そこに5つの橋が架かっていたことから五橋という地名が生まれたという。この付近には「大清水」とよばれた清水が湧き,ほとりには姥神(うばがみ)が祀られていた。
清水小路の地図清水小路の様子の写真

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新弓ノ町(しんゆみのまち)

南材木町の東側で北側は八軒小路に接している。延宝6年(1678)頃に割り出され、当時奉行職だった布施和泉が藩に取り立てを進言した弓足軽衆が住んでいた。
享保2年(1717)、京都から八幡神社が勧請され弓足軽衆の氏神として祀られた。境内の横には的場(まとば。弓の稽古場)があった。神社は町内にいまも残っている。
新弓ノ町の地図

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畳屋丁(たたみやちょう)

南染師町の北にあり、東は六十人町に、西は穀町に接する町。
寛永年間末(1643)までには取り立てられたと考えられている。畳職人たちが住んだことからこの名がつけられた。屋敷は町の中ほどから東部分にあったようだ。
そのほか,侍屋敷,餌指屋敷も置かれた。大正5年(1916)にはカトリック教会が建てられ、現在は幼稚園が併設されている。
畳屋丁の地図畳屋丁の様子の写真

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土樋(つちとい)

現在は若林区と青葉区の2つに分かれているが、東は石名坂、西は米ヶ袋まで、広瀬川の左岸に沿って東西に延びる町。
かつて,清水小路から流れ出たわき水は南下し広瀬川に注いでいたが、一部はいまの荒町小学校付近で分かれて孫兵衛堀となり荒町の裏を東に流れていた。その水を土の樋で流していたことから土樋という地名がつけられたという。
寛永4~5年(1627~28)の若林城築城の後に割り出された町のひとつ。侍屋敷が置かれたほか、鷹匠(たかじょう。藩主の鷹を預かって養育し、鷹狩りの仕事に従事した人々)や餌指(えさし。鷹匠の下に属し、鷹の餌となる小鳥を捕獲した人々)が多く住んでいた。
現在の愛宕橋の右岸あたりには誓願寺という寺があり、ここに渡る誓願時渡戸(せいがんじわたど)が置かれ、船が行き来する広瀬川の交通の要衝でもあった。
愛宕橋付近の左岸には、かつての侍屋敷の屋敷林がいまも残っている。
土樋の地図土樋の様子の写真

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堰場(どうば)

北は石名坂、東は舟丁に接する広瀬川岸に沿った一帯で、広瀬川を堰(せ)き止めて水を引く六郷堰や七郷堰があることから堰場と呼ばれた。
地図に地名として載るようになったのは明治になってからだが、藩政時代の始めから広瀬川の水運を利用した物流の拠点として伊達藩の材木蔵や米蔵が置かれた。
蔵は「若林御材木」「若林御米蔵」と呼ばれた。蔵があったのは元の仙台南警察署、現在救急医療センターになっているあたりで、近くの国道4号線の七郷堀に架かる橋はいまも「蔵前橋」という。
堰場の地図堰場の様子の写真

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成田町(なりたまち)

三百人町に並行し、南鍛冶町から東に延びている町。寛永10年(1633)頃に、北上川ほとりにある桃生郡成田村(現・河北町飯野川。「なんだむら」とも呼ばれていた)の足軽60人が住んだことから名づけられた。
足軽たちは大番組(おおばんぐみ。仙台藩の戦闘の主力となった分団)に属し、組の旗を護衛する役目だったという。
この町にも、足軽たちが故郷から勧請した箱石神社(はこいしじんじゃ)が氏神として祀られ、いまも地域の人々によって祭りが行われている。
明治22年(1887)、上野仙台間の鉄道開通によって町の西はしが分断され、現在に至っている。
成田町の地図成田町の様子の写真

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二軒茶屋(にけんちゃや)

新寺小路の東はじにあたり、明治22年までは南目村に属した。江戸時代末期に「大久保」「鹿島」という2軒の茶屋があったことからこの名がつけられた。
明治時代になると、ここからまっすぐ南に向かい、連坊小路、裏柴田町、表柴田町、三百人町、五十人町、六十人町などを横切って七郷堀を渡り八軒小路にいたる道は長町通と呼ばれ、仙台東部を南北につなぐ道として利用されてきた。いまもたどることができる。
二軒茶屋の地図二軒茶屋の写真

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西新丁・東新丁(にししんちょう・ひがししんちょう)

保春院の東と西に位置する2つの町。ともに、寛永12年(1635)の保春院創建後に割り出された。
西新丁は寺屋敷が多くを占め、一部に侍屋敷が置かれていた。
東新丁は寺屋敷と「御小人衆(おこびとしゅう)」の屋敷があったという。いまは貨物線が東新丁を縦断している。

西新丁の様子の写真

西新丁

東新丁の様子の写真

東新丁

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八軒小路(はちけんこうじ)

南染師町の南側にあり、西は南石切町に、東は長町通に接している。いまも、小路の名がふさわしい細い道が続く。かつて付近に人家が8軒あったことが町名となった。
幕末の絵図では、浄沢寺と常光寺の2つの寺が描かれているが、明治に入ってから常光寺は廃寺となった。大正時代に、南染師町から新弓ノ町につながる南北の通りも八軒小路となった。その東方は、昭和3年まで南小泉村だった。いま、一帯は中学校のある静かな住宅街となっている。

八軒小路の地図八軒小路の写真

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東七番丁・東八番丁・東九番丁(ひがししちばんちょう・ひがしはちばんちょう・ひがしくばんちょう)

清水小路の東側に、北は二十人町(宮城野区)、南は荒町にはさまれた細長い通りが、南北に三丁並んでいる。
このうち若林区内に入るのは、連坊より南の区域。いずれも東六番丁に並行して割り出され、仙台開府当初は足軽屋敷があったが、まもなく侍屋敷となった。間口が狭く奥に長い昔の地割りが残っているのを見ることができる。
東七番丁は深い田だったところで、道をつくるために柴を埋め込んだことから柴田町とも谷地小路(やちこうじ)とも呼ばれた。谷地小路も「仙台八小路」のひとつだった。
東八番丁は大河原村(現・大河原町)出身の鉄砲足軽が住んだことから「大河原町」とも呼ばれていた。足軽たちが大河原から守護神を勧請し祀った四社宮はいまも残っている。
東九番丁は西側に足軽屋敷が置かれ、東側は寺屋敷が並んだ。現在ある栽松院、光寿院、阿弥陀寺、龍泉院などなどの寺院は,この地で400年の歴史をきざんでいる。
東七番丁の地図東七番町の写真

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舟丁(ふなちょう)

東は南材木町、西は石名坂と堰場に接する町。水運の仕事をした足軽の舟衆が住んだことからこの名がつけられた。
仙台開府の頃は、宮沢渡戸で広瀬川を渡り舟丁に出るのが奥州街道の道筋で、城下への玄関口だった。この道筋は、河原町が栄え長町渡戸ができるまで利用された。また、当時は名取川河口から広瀬川をさかのぼって船で城下へ米や材木などが運ばれた。舟丁は船着場としての役割をにない物流の要衝の町として栄えた。
昭和9年、南北に長い舟丁を仙台市電の軌道が走る都市計画路線が貫いた。この大道にさえぎられかつての舟丁の姿を実感するのは難しいが、南はしの高柳病院の前から北を見ると、長い道筋が見えてくる。
北には静かな住宅地が連なる。国道となったこの大道の地下には、地下鉄河原町駅がつくられた。
舟丁の地図舟丁の様子の写真

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保春院前丁(ほしゅんいんまえちょう)

寛永12年(1635)伊達政宗が生母の保春院の13回忌に創建した少林山(しょうりんざん)保春院のある一帯で、椌木通の南側。保春院が創建されたのちに割り出された。
保春院門前には幕末に藩の重鎮の伊達式部や後藤孫兵衛の屋敷が置かれ、明治33年には旧伊達家の農場、養種園となった。その後、昭和18年に仙台市に引き継がれ、現在は若林区役所や若林区文化センターとなっている。
また、昭和35年に開通した貨物線が町を斜めに横切っている。
保春院前丁の地図保春院前の様子の写真

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南石切町(みなみいしきりまち)

南材木町の東裏にある町。寛文4年(1664)の絵図には、「石垣衆」と書き込まれている。南石切町の名は、八幡町付近にもあった石切町に対しての呼び名でもあった。
職人たちは近江の国(いまの滋賀県)から招かれた人々で、神社仏閣の灯籠や鳥居、墓石、石碑などを手がけた。また、南材木町と南石切町を結ぶ道は竹屋横丁と呼ばれたが、文字どおり竹を商う人々が住んでいた場所である。
南石切町の地図南石切町の様子の写真

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南染師町(みなみそめしまち)

南材木町の東に位置する、七郷堀沿いの町。文字とおり、染師たちの住んだ町である。若林染師町ともいわれた。
米沢から岩出山を経て仙台につき従ってきた伊達家お抱えの染師たちは越路(いまの霊屋下)に住んでいたが、寛永13年(1636)の政宗の死去にともなう瑞鳳殿造営のため、この地に移された。
藩政時代には職人の屋敷の間口は6間と定められていたが、染師町では干し場が必要なため半間広い6間半だった。七郷堀の水を使った染め物は質が高かったという。
藩政時代、仙台の染師町は2カ所あり、もうひとつは北目町と田町の間にあって上(北)染師町と呼ばれた。対照的な歴史を持ち、上染師町が主に上級武士を相手に絹物を扱い藩の御用を勤めたのに対し、南染師町は木綿が主で足軽の脚絆の需要に応え、大町の商人の染物も独占して扱った。
上染師町が明治以後は藩の保護を失い衰退したのにくらべ、南染師町でははいまも染物屋が仕事を続けている。また、染師たちの信仰を集めた愛染明王がいまも祀られている。
南染師町の地図南染師町の様子の写真

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元茶畑(もとちゃばたけ)

連坊小路の南側、柴田町の西側、東南むきの斜面に沿った陽当たりのいい場所で、寛文11年(1671)頃から茶の木が植えられて元禄8年(1695)まで藩の茶畑として使われ、畑の中を孫兵衛堀が流れていた。茶畑廃止後は侍屋敷になって元茶畑という地名となった。
茶畑だったところは東半分のほとんどが仙台一高となり、西半分はJRアパートだったところが道路の拡幅で姿を変えつつある。
元茶畑の様子の写真

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弓ノ町(ゆみのまち)

石垣町の東にあり、北は南鍛冶町に接し、南は石名坂に通じる町。寛永10年(1633)頃までに割り出され、弓足軽組の屋敷があった。慶長10年(1605)創建された大安寺には、弓足軽たちの信仰を集めた御弓八幡大菩薩の碑が残っている。
弓ノ町の地図弓ノ町の様子の写真

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連坊小路(れんぼうこうじ)

清水小路から陸奥国分寺に向かって東に伸びる道筋。江戸時代、国分寺には24の僧坊が並んでいたため、そこにいたる道という意味で連坊と呼ばれるようになった。また一説には、舟丁のあたりにあった遊女町へ通じる道であるため「恋慕小路」とよばれたともいう。寛永4~5年(1627~1628)頃に割り出され、藩政期を通して足軽屋敷が並んだ。藩政時代は「仙台八小路」のひとつ。
連坊小路から六十人町にかけて住んだ足軽たちは禄(ろく,藩から支給される手当て)が少なく貧しかったため、自宅の庭で野菜をつくり河原町の青物市場で売りさばいたりした。「連坊や かたふさかけて 柴田町 成田(なんだ)三百 五十 六十」と足軽町の貧しさをからかった戯れ歌があったほどだ。内職のためここでつくられる筆は特産品で、町内のほとんどの家が筆づくりをしていたらしい。明治時代には玉光軒という大きな筆問屋が連坊小路と長泉寺横丁角にあり、奈良から職人を講師として迎え筆づくりの学校を開いていた。今も三百人町などに残る筆屋はここの出身者が始めたという。
明治時代以降は連坊小路小学校や第一中学(いまの仙台一高)、東華女学校(宮城二女高を経て、現在の仙台二華中・高等学校)ができて文教地区となった。また、東北線が通りを横断したため町が陸橋で東西にわかれ、五橋よりの西部を上連坊、東部を下連坊と呼んだ。
現在は道路が拡幅され、車の往来が激しい通りになっている。
連坊小路の地図連坊小路の写真

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六十人町(ろくじゅうにんまち)

畳屋丁から東に延びる五十人町南側の町。正保年間の地図(1645~1646)では「中間(ちゅうげん,武士の下働きをする者)屋敷」となっているが、その後は足軽が住むようになり、幕末には足軽が町の名のとおり60人住んでいた。
町の鎮守として城取神社が祀られている。
六十人町の地図六十人町の様子の写真

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このページは、仙台開府400年を記念して実施した「若林区の魅力発見事業」で平成14年度に製作しました。
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