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宮城野区
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更新日:2024年6月6日
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宮城野区には13の連合町内会があります。その区域ごとに地域情報をまとめました。
藩政時代には武士や足軽が暮らすまちだった榴岡地区。二十人町や鉄砲町などの町名にその面影を残す一方、土地区画整理事業により新しいまちづくりが進み、宮城野通を中心にオフィス街が形成されています。高層マンションも多く、若い世代の人口が増えています。
明治22年、苦竹村と南目村、小田原村が合併して宮城郡原町が誕生。「郡役所」も「原町役場」もこの原町地区にあり、行政の重要地として栄えてきました。現在も宮城野区役所をはじめ、仙台入国管理局、仙台第3・4合同庁舎などがあり、宮城野区の行政の拠点地区となっています。
かつては水田の広がる田園地帯であった幸町地区。高度成長期を境にビルが立ち並び、今では市内有数の中層住宅街を形成しています。
隣接する幸町地区とともに、かつては一面の水田地帯だったこの地区も、現在では大型商業店舗や中高層住宅の立ち並ぶ地域となっています。
まちの中央に横たわる与兵衛沼周辺は、古代、多賀城の造営などに使われた古瓦の産地でした。現在もその窯跡を残す山々には,雑木が生い茂り、四季折々に豊かな表情をみせています。
藩政時代には伊達家のお狩り場として野生動物の宝庫だった鶴ケ谷。その名は、昔シベリア方面から鶴の群れが飛来したことに由来するといわれています。昭和40年代前半に東北最大のモデル団地として造成された住宅地で、市営住宅の建替など地域の再整備が行われ、居住環境が大きく変貌しようとしています。
鶴ケ谷団地東南の丘陵地帯に位置する古くからの住宅街。燕沢遺跡や菖蒲沢遺跡のほか、横穴古墳なども数多く残されています。また、昔の塩釜街道が貫いている地区でもあり、比丘尼坂をはじめ、街道にまつわる言い伝えや名物が残されています。
かつて芭蕉も歩いた塩釜街道沿いに広がる地区。当時、この付近は「案内の松原」といわれ、赤松の並木が見事に続いていました。現在は県道仙台松島線として拡幅され、JR仙石線と東北本線の最寄駅の周辺では開発が進んでいます。
かつては文字通りに水田が並ぶ田園地帯でしたが、昭和40年代から宅地化が進み、今では閑静な街並みが形成されてます。新田小学校近くの小高い住宅地には、中世のころ「小鶴城」があり、現在も「小鶴」という地名が残されています。この名は、美しい女性の悲しい物語に由来するといわれています。
かつては萩やキキョウが咲き誇る一面の野原だった宮城野地区。現在はプロ野球東北楽天イーグルスのホームスタジアム(県営宮城球場)や陸上競技場などが並び、ジョギングコースなども設置され、スポーツのメッカとして市民に広く親しまれています。また、付近には学校や病院なども立ち並び、良好な住宅・学園街を形成しています。
七北田川が東西に貫流し、西北一帯に連なる丘陵をかかえる地区。その名は遠い昔、この地に「岩切場」があったことによるといわれています。幕府の名代である留守職・伊沢家景の末えい留守氏の居城であった岩切城址をはじめ数多くの史跡が残っています。
仙台市の東部に位置する高砂地区。七北田川の下流域に豊かな自然環境や田園地帯が残る一方、宅地化も進んでいます。仙台港背後地では工業生産、物流の拠点としての整備が進められているほか、大型商業施設や水族館の開業などあらたなにぎわいも生まれています。
県道仙台松島線をはさみ、鶴ケ谷団地まで続くこの地区は、静かな住宅地となっています。旧岩切村との境界近くには、文化財の宝庫として知られる善応寺があります。
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