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泉区

更新日:2016年9月20日

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泉なつかし写真館―第8回 泉の名所・旧跡

第8回は、泉区内にある「泉の名所・旧跡」を紹介します。

 胎内くぐり

昭和50年に撮影された、泉ケ岳の「胎内くぐり」の写真です。

泉ケ岳頂上からみて、東南の標高約800メートルの傾斜が急で険しい登山道中にあります。
巨大な岩石の重なりの中に高さ4メートルほどの巨石が二つ立ち、その上に長さ約7メートル、幅約2.5メートル、厚さ約3メートルの巨石が乗っています。
中央には人が一人やっとくぐり抜けられる隙間があり、「胎内くぐり」と呼ばれています。
この巨石の面積は畳10畳ほどで、登山者の休憩所として利用されています。

 奇岩の猿岩

昭和59年に撮影された、朴沢にある「猿岩」の写真です。

高さ10メートルほどの直立に近い岩場で、向かって左側の崖面は至る所が凹状になっています。
凹状の地形は風雨による侵食のほか、科学的風化作用により形成されたもので、「雲形侵食」と呼ばれています。
猿の遊び場の様に見えることから、「猿岩」と呼ばれています。

昭和52年の猿岩

 晩秋の光明の滝

昭和59年に撮影された、「晩秋の光明の滝」の写真です。

光明の滝は高さ13メートル、幅3メートルと区内随一の滝で、「男滝」とも呼ばれています。
光明の滝には遊歩道や東屋、駐車場が整備され、地域の憩いの場となっています。

 朴沢亀の子石

昭和55年に撮影された、朴沢にある「亀の子石」の写真です。

朴沢のバス終点から、約200メートルほど北に行くと、道の分岐点に多くの石碑があります。
この分岐点にある亀の甲羅型の石が、「亀の子石」と呼ばれる石です。
写真では、中央下の階段の左に横たわっている甲羅型の大きな石(直径130センチメートル)です。

亀の子石には伝説があります。
昔石屋がこの石で地蔵さんを作ろうとしましたが、何度試みても、もとの亀の形の石に戻ってしまうので地蔵を作るのをあきらめたそうです。
また、「亀の子石」の下の土をとって産婦の布団の下に敷くとお産が軽いといわれました。

左の写真は「亀の子石」です。頭を下に丸めたように見えます。

 鞍掛石

昭和54年に屏風岳で撮影された「鞍掛石」の写真です。

鞍掛石は屏風岳の尾根に約20トンもある大石が、さながらやせ馬の背に鞍を置いたようにあり、その上に2トンくらいのやや丸い形の岩石が、さも鞍に乗ったように置いてありました。

これは鎌倉権五郎景政が敵の進撃を防ごうとして置いたものだと伝えられています。
七北田ダムの工事での石材確保のため、屏風岳が削り取られてしまったため、現在は隣接する「鷲倉神社」に置かれ、大切に保管されています。

 姥杉

昭和55年に鷲倉神社境内で撮影された、宮城県指定天然記念物の「姥杉(うばすぎ)」の写真です。

姥杉は神社境内の参道右側にあり、根元の幹のまわりが11.9メートル、樹の高さが約36メートルの巨木です。
樹幹は垂直に伸び、地上9メートルの部分から放射状に枝を張っています。
樹齢は約500年と推定されますが、幹の枯損や、中心部の空洞は見られず、樹勢はすこぶる旺盛です。

写真には写っていませんが、「姥杉」の右側に「鞍掛石」が置かれています。

 鷲倉神社本殿

昭和58年に撮影された、福岡字小山にある「鷲倉神社本殿」の写真です。

「鷲倉神社」が鎮座する小山と屏風岳は、峰続きにあります。
当初の社殿は屏風岳の山頂に建てられました。
しかし、高所にあるために強風で壊れやすく、改築のたびに東方へ移り、現在地に落ち着いたといわれています。
現在の社殿は3度目の移転とされ、棟札によると慶長9年(西暦1604年)に伊達政宗公が経費を出したと記されています。

なお、明治14年(西暦1881年)の改築は福岡村で行われ、村内一戸あたり、お金は10円、人足は20人、白米は2斗ずつの奉仕により行われたそうです。

 堂庭廃寺宝塔跡

昭和51年に根白石字堂所山で撮影された「堂庭廃寺宝塔跡」の写真です。

堂庭廃寺宝塔跡は黒川郡との境界付近の標高240メートルの堂庭山山頂付近に立地しています。
昭和43年の発掘調査により、瓦積みの基壇(建物の下の石または土の壇)の中から円形にまわる礎石が発見され、建築物は宝塔跡(寺の塔)であることが明らかになりました。
出土遺物の年代から、10世紀中頃に位置づけられ、多賀城の西域を守る鎮護(乱を鎮め国を守ること)の寺院と考えられています。

 白石城跡の満開の桜

昭和58年に根白石字館下で撮影された、「白石城跡」の満開の桜の写真です。

白石城は東西約150メートル、南北約100メートルの規模で河岸段丘(かがんだんきゅう)を利用した平城でした。
白石城跡には北側から西側にかけて、長さ約120メートルにわたって土塁(土を盛り上げて築いた小さなとりで)と空堀(水のない堀)が残っています。

 賀茂神社のイロハモミジ

昭和51年に撮影された、賀茂神社のきれいに紅葉した「イロハモミジ」の写真です。

賀茂神社のイロハモミジは、参道の入り口の石段を上ったところに、東西に2株並んで植えられており、両株とも樹勢がすこぶる旺盛です。
東側の1本の樹齢は100年以上と推定されています。
平成11年には宮城県の天然記念物に指定されています。

 内藤以貫の墓

昭和55年に撮影された、「内藤以貫(いかん)の墓」の写真です。

以貫は陽明学の流れをくむ儒学者で、「貞山公年譜」「義山公年譜」を作成し、二代藩主伊達忠宗公、三代藩主綱宗公に仕えました。
また、書道家としても著名で、中国の政治家李鴻章により絶賛されたと伝えられています。
以貫は晩年、この地に隠棲(いんせい)し、元禄5年(西暦1692年)に68歳で亡くなりました。
墓は白石山房といわれた住居のあった丘の中につくられ、土盛りをし、中央に自然石をすえた質素なものです。

 仙台藩刑場跡

昭和55年に撮影された、「仙台藩刑場跡」の写真です。

仙台藩刑場は仙台藩の一般庶民の刑場で、元禄年間から明治初年までこの地に置かれました。
跡地には、供養塔や地蔵尊が祀られています。
五代藩主伊達吉村公の夫人長松院(久我貞子)の遺言により、延享3年(西暦1746年)に「河南堂」と「河北堂」の念仏堂が建立され、受刑者の霊を弔いました。
河南堂には「抜苦(ばっく)」、河北堂には「予楽(よらく)」の額が掲げられていました。
「予楽」は紛失してしまいましたが、「抜苦」の額は「山の寺洞雲寺」に保存されています。

 松森焔硝蔵跡

昭和57年に撮影された、仙台市指定文化財の「松森焔硝蔵(えんしょうぐら)跡」の写真です。

「松森焔硝蔵跡」は仙台藩焔硝蔵(火薬貯蔵庫)の一つです。
この焔硝蔵はもともと3基ありましたが、現在残っているのは1基だけです。
昭和57年の発掘調査では、土塁(土を盛り上げて築いた小さなとりで)に囲まれた内部から建物跡(蔵跡)とそれを囲む排水溝や石敷きの通路、爆発によってできたクレーター(爆発孔)などが発見されています。

なお、松森焔硝蔵跡については、正徳5年(西暦1715年)の「軍器秘数」に「六百箱松森浦田御蔵」と記載があり、大量の火薬が貯蔵されていたことが分かっています。

写真:元泉市誌編纂委員会副委員長庄司健治氏のコレクションほか
出典:泉市誌、グラフ泉、いずみのふるさと(総集編)、続みーつけた、泉市の文化財、七北田川まるごとガイドブック

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