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更新日:2016年9月20日

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泉なつかし写真館―第2回 山の寺洞雲寺

第2回は、昭和18年に「軽便っこ」の飛び火が原因で、国宝に指定される直前だった「二天門」を始め、寺のほとんどの建物などが燃えてしまった、失われし文化財「山の寺洞雲寺」を紹介します。

 仏殿、二天門、開山堂

大正末期に撮影された写真で、右から「仏殿」「二天門」「開山堂」です。

「山の寺洞雲寺」は日本三山寺の一つで、慶雲のころ(西暦704年~708年)に釈定慧(しゃくじょうえ)法師が「蓮葉山円通寺」(俗に佐賀野寺)を開創し、弘仁のころ(西暦810年~824年)に慈覚(じかく)大師が中興し、「山の寺」と称しました。
暦応のころ(西暦1338年~1342年)に明峰素哲(めいほうそてつ)禅師が再興。
寺名を「龍門山洞雲寺」とし、山の寺洞雲寺の呼び名で呼ばれるようになりました。

 焼失前の山の寺配置図

中央部の上の建物が「開山堂」、開山堂の右下の建物が「二天門」、二天門の右下の建物が「仏殿」、仏殿の右の建物が「仁王門」でした。
また、開山堂の左下には「方丈庫裡(大庫裡・小庫裡)がありました。

配置図をクリックすると「大きな配置図」と「全体図」がご覧いただけます。

 旧門前

大正末期に撮影された当時の門前(旧国道4号付近)付近の写真です。

写真の左に写っている碑は、現在も旧街道沿いに残っています。

 仁王門

「仁王門」の建立は、寺の記録によると、明和9年(西暦1772年)とされます。
門の両側には、一対の仁王像があったそうです。

 仏殿

「仏殿」の建立は、棟札の記録によると、延享2年(西暦1745年)とされます。
仏殿は「遮那殿」とも呼ばれ、本尊の毘廬遮那仏(びるしゃなぶつ)とその脇には文殊(もんじゅ)、普賢菩薩(ふげんぼさつ)が安置されていました。
写真では、仏殿の後ろに「二天門」の屋根とその右側に「開山堂」、写真中央右に二天門と開山堂をつなぐ「昇階段」が写っています。

 二天門

昭和10年ごろに、中新田から団体でお参りに来た人たちの記念写真です。

このころは、「軽便っこ」に乗って遠足で訪れる子どもたちや、団体でお参りに来る人たちが大勢いて、「二天門」をバックにして記念写真を撮っていたそうです。
二天門の建立は、棟札の記録では天明元年(西暦1781年)ですが、寺の記録では鎌倉時代の嘉禎2年(西暦1236年)とされます。
二天門は当時「山門」とも呼ばれていましたが、門というよりは、塔のように細長い建物でした。

 二天門の扉

このすばらしい「二天門」の扉の彫刻は、江戸時代初期の名工「左甚五郎」の作と伝えられています。
また、二天門の下層の天井には龍の墨絵が描かれていて、「鳴き龍」として名物の一つになっていました。

 二天門と開山堂

手前の建物が「二天門」で、後ろが「開山堂」です。

開山堂は、寺の記録によると安永4年(西暦1775年)に建立されました。
開山堂には、二天門から続く階段を昇って行きました。
極彩色の彫刻などがあり、奥には「明峰素哲(めいほうそてつ)禅師」、「法屋覚忍(ほうおくかくにん)禅師」、「梅國祥三(ばいこくしょうさん)禅師」の木像が安置されていました。

 欄間の木彫りの龍

開山堂の内部の欄間には、まるで生きているかのような伝説の木彫りの龍がありました。

 大蛇の歯と鱗(うろこ)

大蛇の歯

大蛇のうろこ

山の寺には悲恋物語の伝説が残っています。
愛し合いながら一緒になれないことを恨み、大蛇になった男女が、蛇となって生き続ける苦しみから、「梅國(ばいこく)禅師」に法力で救われました。
そのお礼に、「歯(写真左)」と「鱗(写真右)」を献じました。

大蛇の歯と鱗は、現在も山の寺洞雲寺に展示されています。

 再建された本堂

「山の寺洞雲寺」は、昭和18年の山火事によって、寺のほとんどの建物などを焼失してしまいました。
このため、昭和36年に「仏殿」のあった位置に本堂が再建されました。

 銅鐘

写真は、宮城県指定文化財(工芸品)に指定された、昭和37年に撮影されたものです。

「銅鐘」は永正15年(西暦1518年)に作られたもので、銘文を有す梵鐘(ぼんしょう:寺院のつりがね)では、県内最古のものといわれています。
高さ91.25センチメートル、最大径56.2センチメートルで龍頭高は19.4センチメートルあります。
現在の鐘撞堂にある銅鐘は平成5年に作られたもので、写真の銅鐘は会館の玄関脇に置かれています。
なお、山の寺洞雲寺には、享保17年(西暦1732年)に寄進された高さ60センチメートルの殿鐘もあります。

 坐禅窟

写真の右側の洞穴が、梅國(ばいこく)禅師が坐禅をしたと伝えられる「座禅窟」です。

 抜苦の額

七北田にあった「念仏堂(河南堂)」に掲げられていた、「抜苦の額」の写真です。

念仏堂は七北田刑場で処刑された人々を弔うために建てられたもので、「河南堂」と「河北堂」があり、山の寺洞雲寺で供養を行っていました。
河南堂にあった「抜苦の額」は山の寺洞雲寺に保管されていますが、河北堂にあった「与楽の額」は紛失してしまいました。

 礎石

山の寺洞雲寺の本堂前の「碑文」の脇に置かれている石です。

どの石にも、中央に四角いほぞ穴(柱がずれないようにした穴)があります。
燃えてしまった仏殿の土台に使われた礎石で、焼失前の山の寺洞雲寺を知る貴重な遺産です。

写真:元泉市誌編纂委員会副委員長庄司健治氏のコレクションほか
出典:泉市誌、グラフ泉、いずみのふるさと(総集編)、続みーつけた、泉市の文化財、七北田川まるごとガイドブック

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