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更新日:2016年9月20日

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泉なつかし写真館―第5回 七北田川

第5回は、「泉ケ岳」を水源とし、泉区のほぼ中央を流れている「七北田川」を紹介します。

 七北田川と泉ケ岳

昭和42年に撮影された「七北田川」と水源の「泉ケ岳」の写真です。

七北田川は別名「冠川」「神降川」(かむりがわ)とも呼ばれていました。
名前の由来はいくつかあり、神様が冠を流してしまった川なので「冠川」という説、あるいは神様の降りた川だったので「神降川」という説などがあります。
七北田川の両岸は河岸段丘(かがんだんきゅう)になっており、川は田よりも低いところを流れていました。
そのため、川の水をそのまま利用することはできず、昔の人々は田に水を引くために、川の上流に「堰」や「堤」を作り、「くぐり穴」や「サイフォン」などの工夫を重ねて米を作り続けてきました。

 水神碑

昭和51年に撮影された、「水神碑」の写真です。

昔、七北田川流域に住む人々は、かんばつが原因で凶作になると、「泉ケ岳」の最も険しい表コース(薬師寺コース)を登り、頂上で雨乞いをしていました。
しかし、頂上での雨乞いは大変だったため、明治28年に七北田川の源流である南山腹、「樋沢川(ヒザ川)」の渓流のほとりに「水神碑」を建てました。
水神碑は高さ2.07メートル幅1.8メートルの巨大な石碑です。

 泉ケ岳水源の湧き水

昭和57年に撮影された、「ヒザ川」の水源の湧き水の写真です。

写真中央右に勢いよく湧き出る水源が写っています。
「ヒザ川」と北東の「長谷倉川」の上流は水量が豊富で、泉ケ岳中腹部からの多量の清水湧出が「泉」の名の由来になっているともいわれています。

 七北田ダムの湛水式

昭和58年に撮影された、「七北田ダム」の湛水式の写真です。

七北田ダムは11年の歳月をかけ、昭和59年に完成しました。
形は「中央コア型ロックフィルダム」で、大きな岩や石をたくさん積み上げて造られたダムです。
七北田ダムに蓄えられた水は、現在、泉区内と塩釜市の一部の水道水として使われています。
また、七北田ダムの見学所はダムを見渡せる広場になっており、桜や紅葉が楽しめます。

 厳寒の光明の滝

昭和60年に撮影された「光明の滝」で、寒さのために滝が凍りついている写真です。

光明の滝は七北田川の水源の一つの「長谷倉川」にあり、高さ13メートル、幅3メートルあり、区内随一の滝です。
光明の滝は「男滝」とも呼ばれ、かつて、その下流100メートルほどに、ほとんど同じ規模の「女滝」がありました。
残念ながら、女滝は、大正時代に崖が崩壊し、今は見られません。なお、光明の滝には遊歩道や東屋、駐車場が整備され、地域の憩いの場となっています。

 壇ノ原橋と川崎橋

昭和37年に福岡小学校の裏から撮影された、「七北田川」と「長谷倉川」の合流地点付近の写真です。

写真中央右に写っている橋が昭和36年に完成した「壇ノ原橋」で、長谷倉川に架かっています。
写真中央下に写っている橋が昭和37年に完成した「川崎橋」で、七北田川に架かっています。
長谷倉川は本流に匹敵するほど水量が多い支流なので、長谷倉川と合流した七北田川の水流は倍くらいに増えます。

 鼻毛橋からの七北田川

この写真は、「鼻毛橋」から「七北田川」と「泉ケ岳」を写した、平成15年度の泉区写真コンクールの入選作品です。

鼻毛橋とは変わった名前ですが、名前の由来にはいくつかあります。
昔このあたりはやせていた土地で、鼻にもかからないことから「鼻毛橋」になったという説。
昔、鼻毛橋のところは急な坂であまりにも急すぎるので、鼻毛がくっつきそうだったことから「鼻毛橋」になったという説。
橋につくツララが鼻毛のようだったから「鼻毛橋」になったという説などです。

 新堰下流での投網

昭和56年に撮影された、「新堰」の下流で投網をしている写真です。

七北田川の水の一部は根白石中学校の南にある新堰から水路に入り、田を潤しながら「将監堤(沼)」へと注いでいます。
かつて新堰は、野菜を洗ったり、朝食の支度などに使われていました。
七北田川には新堰以外にも、「福岡大堰」「今宮堰」「明神堰」などの堰があります。

 将監堤(沼)

昭和50年に撮影された、「将監堤(沼)」の写真です。

将監堤(沼)は、「横澤将監(よこざわしょうげん)」が寛永年間に水田のかんがい用水確保のため、沢地に堤防を築いて造ったものです。
横澤将監は伊達政宗の家臣で、慶長18年(西暦1613年)伊達政宗の命で南欧に赴いた「支倉常長」を迎えるためメキシコに派遣されました。
将監沼の周囲は「将監風致公園」として整備され、桜並木やミズバショウなど、四季折々の自然が満喫できます。

 支流との合流

昭和61年に撮影された航空写真です。

七北田川の河川改修が急ピッチで進められているのが分かります。
七北田川は泉ケ岳を水源として、「支倉川」「西田中川」「萱場川」「八乙女川」「高柳川」「仙台川」「要害川」「前ケ沢川」などの多くの支流を合わせ集めて、泉区のほぼ中央部を蛇行しながら西から東へと流れ、宮城野区の蒲生で海に注いでいます。

 石留明神(石止伝説)

昭和56年に撮影された七北田橋下流の写真です。

七北田橋の左岸段丘の杉木立の中には「石留明神」が祀られています。

大昔、冠川神社の志波彦神が白馬に乗り川を渡ろうとしたところ、馬が川底の石につまずき落馬し冠を流してしまいました。
神は大いに怒り、これより下流に石があってはならないと、家来の神々に命じて、石を拾い上げさせ、神の一方を番に命じました。
これが石留明神で、これより下流には、今でも石はないといわれています。
また、一説には付近の川床に巨大な石が横たわっており、石の流れを防いでいるのだという説もあります。

 七北田川の流路変更

昭和57年に撮影された、流路変更してできた新しい「七北田川」です。

流路変更する前はコの字型に流れていたために、水害が多い地区でした。
昭和55年から仙台バイパスの「泉大橋」から「宝堰」までを直線的な流路に変更する工事が行われ、昭和57年に完成しました。
この流路変更などにより、台風や大雨での被害が以前に比べ出にくくなりました。

 湧上サイフォン

昭和55年に撮影された「湧上サイフォン」の写真で、川向に水を通す堕道工法を解明したときのものです。

七北田川の水の一部は堰の取水口から水路へと流れていますが、途中に沢や道があるとその下を「U字状(サイフォン)」に堀り、断崖や急斜面があると「くぐり穴(トンネル)」を掘って水を通しました。

 つかい川

朴沢の「つかい川」の写真です。

つかい川は農業用水や食事の後片付け、洗濯など、さまざまに活用され、地域の人々の生活に欠かせないものでした。
そのため、「使いがっての良い川」が変じて「つけがわ」とも「つかい川」とも呼ばれるようになりました。
つかい川では、「ばったり・ばっかり」といわれる米をつく道具や「水車」なども使われていました。

写真:元泉市誌編纂委員会副委員長庄司健治氏のコレクションほか
出典:泉市誌、グラフ泉、いずみのふるさと(総集編)、続みーつけた、泉市の文化財、七北田川まるごとガイドブック

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