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若林区

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更新日:2016年9月20日

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寺めぐり「若林・六郷あたり」

松原地蔵[まつばらじぞう](若林)

地蔵のほか数多く並んでいる墓石は、宝暦5年(1755)の宝暦大飢饉で死んだ人たちの供養に建てられていたもの。当時ここに小屋をつくって粥を施したがとても足りず、多くの餓死者を出したという。

清涼寺[せいりょうじ](沖野)

曹洞宗、楊柳山。龍泉院の末寺。元亀2年(1571)開山。伊達家以前にこのあたりを治めていた粟野氏の館、沖野城跡にある。
この一帯は、奈良時代に陸奥国分寺を中心とした町割りで条里制が敷かれた所という。昔から屋敷や田畑が南北に碁盤の目のように整備され、二の坪や三の坪といった地名が残されていた。城跡にちなむ地名も多い。
清涼寺には観音堂があり、江戸時代の名取郡誌にはここが仙台三十三観音二十七番札所であると書かれているが、現在は飯田の満蔵寺にある。
江戸時代の和算学者の碑がふたつ並んでいる。関流算術の丹野清晴と吉田流算術の丹野村晴で、二人の祖先の丹野善右衛門は国分氏と伊達氏に仕え、この寺に墓がある。
清涼寺の概観写真

満蔵寺[まんぞうじ](飯田)

真言宗、千手山。奈良の長谷寺の末寺。延宝6年(1678)に開山したが、江戸時代に2度火災にあって記録が残っていない。
千手観音を祀る観音堂には地蔵が置かれているが、仙台の地名の起こりとされる千躰仏の一部という。明治6年(1873)、ここに仙台第36番小学校の飯田小学校が開校した。現在の六郷小学校。
仙台三十三観音二十七番札所。
満蔵寺の概観写真

両全院観音堂[りょうぜんいんかんのんどう](日辺)

天台宗、本木山。かつては本木(もとき)観音寺があり、廃れたあと修験寺の両全院となったが明治初期に廃寺となって観音堂だけが残り、境内に八坂神社が移された。
慈覚大師が1本の木から3体の観音を造り、袋原の大善院、根岸の常蔵院とこの地に納めたという言い伝えがあり、これらは名取の三観音と呼ばれている。ここの観音は根元の部分だったので、「本木」の名になったといわれる。明治15年(1882)の火災で焼失し、堂や本尊は明治末に再建された。
仙台三十三観音二十六番札所。

徳照寺[とくしょうじ](日辺)

浄土真宗大谷派、光明山。正楽寺の末寺。寛文4年(1664)開山。新寺小路の正楽寺はこの場所に開山したが移転し、跡に徳照寺ができた。
この地は中世の城だった日辺館の跡という。
天保9年(1838)に建てられた天保飢饉の供養塔がある。
天保の飢饉の時に御救小屋をつくって難民救済にあたった針生林蔵の墓がある。針生はまた、城下の屋敷に杉、桐、桑などの苗木3万本を植えている。
徳照寺の概観写真

祐善寺[ゆうぜんじ](今泉)

浄土真宗本願寺派、今泉山。京都西本願寺の末寺。政宗の家臣、立花一吉が出家して元和3年(1617)に息子一則と共に開基した。鎌倉時代の作と伝えられる十一面観音が祀られているが、中世の武将が今泉城に祀っていたものといわれる。
仙台三十三観音二十九番札所。
斎藤俊平の碑。今泉の儒医で、私塾を開いて門弟数千人を出している。文化4年(1807)~明治15年(1882)。
祐善寺の概観写真

高福院観音堂[こうふくいんかんのんどう](今泉)

天台宗高福院があったが廃寺となり、観音堂だけが残って現在は個人の住宅内にある。観音は飛観音の伝説を持つ。
仙台三十三観音三十番札所。

円浄寺観音堂[えんじょうじかんのんどう](今泉)

天台宗、観音山地蔵院。北山の光円寺の末寺。元亀2年(1571)開山。今泉城と呼ばれた須田玄蕃の館跡にあり、修験寺だった円浄寺は明治中期に廃寺となって光円寺に併合され、観音堂が残った。
仙台三十三観音二十八番札所。
円浄寺観音堂の概観写真

地福寺[ちふくじ](今泉)

曹洞宗、慈眼山で龍沢寺の末寺。開山年は不明だが江戸時代初期といわれる。

東禅院[とうぜんいん](種次)

曹洞宗、薬王山。砂押の滝沢寺の末寺。慶長年間(1596~1614)に開山した。この寺に明治6年(1873)、のちに東六郷小学校となる種次小学校が開校している。
東禅院の概観写真

高福寺[こうふくじ](藤塚)

真言宗、金龍山。八幡町の龍宝寺の末寺だったが、明治40年(1907)に廃寺になった。現在は藤塚公会堂に観音や菩薩の像が納められている。

長称寺[ちょうしょうじ](二木)

浄土真宗、水白山。新寺小路の正楽寺の末寺。弘治元年(1555)に武田信玄の家臣二木(ふたき)正義の子、玄長が出家して開基した。
この地は二木氏の名をとって二木となったという。
長称寺の概観写真

昌林寺[しょうりんじ](二木)

曹洞宗、茂葉山。荒町の昌伝庵の末寺。慶長15年(1610)開山。天明5年(1785)の飢饉供養塔がある。
このあたりは三本塚といわれる地名で、広瀬村郷六(現在の青葉区郷六)の佐藤家友という武士が一族で移住して開墾した土地。三本塚古墳があり、古墳時代には人が生活した場所だったようだ。
昌林寺の概観写真

海楽寺[かいらくじ](井土)

浄土真宗大谷派で東漸寺の末寺。山形天童の僧がこの地に正受庵という庵を結び布教していたが,江戸末期には荒廃していたという。
安政年間(1854~59)に栄明和尚が本山から正受山海楽寺の号を受け,正受庵を寺として再興した。

薬王寺[やくおうじ](下飯田)

真言宗、瑠璃(るり)山。京都智積院の末寺。寛永19年(1642)開山とされるが、境内の墓碑から考えて下飯田が開墾された寛永初期までさかのぼるともいう。
この地は政宗の命令で水沢領主の留守氏が小野常勝に開墾させたのが始まりといわれ、働いた者が留守氏の足軽となって定住した。
薬王寺の概観写真

下飯田薬師堂[しもいいだやくしどう](下飯田)

天保10年(1839)、五穀豊穣を祈願して大僧正証運和尚が建立したという。堂は直径10メートル、高さ2メートルの円墳の上に建てられている。
下飯田薬師堂の概観写真

 

このページは、仙台開府400年を記念して実施した「若林区の魅力発見事業」で平成14年度に製作しました。
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