現在位置 ホーム > 泉区トップページ > 泉区の紹介 > 泉区のプロフィール > いずみ史跡今昔物語 (目次) > いずみ史跡今昔物語―第14回 総括(石碑)編

泉区

ページID:16296

更新日:2016年9月20日

ここから本文です。

いずみ史跡今昔物語―第14回 総括(石碑)編

これまで、泉区内に点在し、現在に引き継がれている史跡を13回に渡って見てきましたが、現在地にないもの、朽ち果て忘れ去られようとしているものなどさまざまです。それが歴史だと言ってしまえばそれまでですが、これまで引き継がれてきたものを後世に残すことは、とても大切なことではないでしょうか。

最終回となる今回は、泉区内のあちこちに点在する古碑・板碑にスポットを当てて(一部再掲)紹介します。

泉区内案内図

地図の地区名をクリックすると、その地区の石碑の説明に移動します。

泉区内の地図

今回紹介する地区等一覧

 朴沢地区

朴沢新城近くの分岐点にある馬頭観世音です。
昔の農家にとって、馬は、農耕に欠かせないものであり、また運搬具の一つでもありました。
現代のトラクターなどとは比較ができないほど大切なものでした。その愛馬の死を悼んで建てたのが、「馬頭観世音」です。
泉区内の各地に、こうした石碑が多く残されています。

写真/朴沢新城付近の石碑

 福岡地区

明暦3年(西暦1657年)、松島瑞厳寺中興の祖である雲居禅師が開山した永安寺の座禅堂跡に残る石碑です。
享保2年(西暦1717年)、永安寺5世関林祖禅が建立しました。
雲居和尚座禅堂は今はなく礎石が残っているのみで、本堂脇の左側の急斜面に作られた階段を登った禅堂山の頂に碑があります。
例年4月末から5月ごろにかけて、この付近はカタクリの花が満開となります。

写真/永安寺座禅堂跡

また、泉区内にはさまざまな古碑がありますが、時代的には鎌倉期から室町期までの約700年から400年前に建立された卒塔婆です。
板碑とも言われます。
この板碑は、根白石と福岡の境にある和泉薬師堂の裏の東泉板碑群です。
右から地蔵様、真ん中は種子欠損のため不明、左が種子で「ア」と記載されています。
泉ケ岳を背にした風景の素晴らしさは格別です。

写真/福岡界隈の石碑群

 根白石地区

根白石上の宿公会堂前の分かれ道の所に、多くの馬頭観世音の石碑に囲まれて、道標(右前の石碑)の小さな石碑が建っています。
泉区内の要所要所に建っている定義山への道案内標識で、「左は定義」と刻まれています。
よく注意して見ないと分からないほど小さなものですが、昔の人にとってはなくてはならない交通標識でした。

写真/根白石界隈の石碑群

 西田中地区

西田中の柿屋敷にある石碑で、もともとは別の場所にありましたが、根白石の耕地整理に伴い、新道の傍らに移転されました。
古来から眠りの神様として知られ、遠くの村からも参詣者がありました。
子どもの夜泣き封じや不眠症の人は碑面を上から下になでおろし、反対に、寝てばかりいた人は下から上になで上げて祈ったそうです。
夜寝付けなくて困っている人などは、お参りをしてみるのも一つの方法かもしれませんね。

写真/柿屋敷板碑

 実沢地区

「狼石」(おいぬいし)は、以前は実沢早坂の東方、戸平山にありましたが、中山地区一体の開発に伴い、道端にあった16の石碑とともに集められ、現在の北中山小学校の西側の見晴らしのいい丘の上に移されました。

「三峯山」と刻まれた「狼石」には、心温まる伝説が残されています。
実沢の庄之助という百姓がウマに薪を積んで仙台へ売りに行く道中に、喉にイノシシの骨が突き刺さって苦しんでいたオオカミを助けたところ、オオカミはいつも仙台から帰るときに庄之助を送ってくれるようになりました。
それで庄之助はいつもおにぎりを二つ作って、一つをそのオオカミに与えるようになったそうです。
そして庄之助が亡くなると、その死を悼しんでオオカミの遠吠えがずっと続いていたという話が残されています。
その話を聞いた子孫がそのオオカミの供養にと建てたのが、この「狼石」だと伝えられています。

写真/狼石

 小角地区

根白石消防出張所から根白石方面に進むと、左側に旧道、久保坂があります。
その道端には10基ほどの石碑が残され、湯殿山、庚申塚や馬頭観世音などの石碑の中に、天明6年の飢饉供養碑があります。
西部地区には、これと同様の飢饉供養の碑が多く残されていますが、七北田など東部地区にはほとんど見られません。
区内各地で甚大な被害があったと考えられるのですが、ほかの地区で見られないのはなぜなのか、謎とされています。

写真/窪石碑群

 古内地区

賀茂神社裏手に通じる旧道を下っていったところに、「馬頭観世音」の小さな碑が4基ほど細々と残されています。
今にも押しつぶされそうですが、これも歴史的遺産の一つです。
車に乗っていると気がつかないで通り過ぎてしまいそうですが、これからもこのような風情をぜひ残しておきたいものです。

写真/賀茂神社裏山の石碑

 上谷刈地区

水の森公園の中を走っている園路の一つ、虹の丘団地寄りに水の森まで至る道は秀衡街道で、七北田を通る新街道(旧国道)ができるまでは、重要な街道でした。
その道の傍らに、「湯殿山」と刻まれた石碑がひっそり建っています。
七北田、市名坂などの各部落には古くから三山参り講が組織され、会費を集めて毎月1回講を開き、三山の掛軸を掛け祈祷をしていました。
経文は不明ですが、家内安全と農作物の豊穣を祈願したものとされています。
羽黒山、月山、湯殿山などへの参拝は交代で行われ、白衣を着て杖、菅笠、ござを持って5日ぐらいかけて参拝したそうです。

写真/秀衝街道と石碑

 野村地区

「二十六夜塔」は、将監団地の西、現在の将監西児童館南側の小高い山の上に残されている石碑群の一つです。
安政5年に建立されました。
第六天の碑とも言われ、仏教天部の主尊で天部護法の神様とされます。
弓矢を持つ仏様で、他人の楽しみも自分の楽しみにしてしまうと伝えられています。
また、仏の教えでは、害を及ぼす仏様とされ、昔、魔王といわれた疱瘡は、この神様の仕業とされていました。
しかし、この神様に祈ると病気が軽く済むと信じられたことから、村境の沿道に祭ることによって病魔退散を願うとともに道しるべの塔として信仰されたものです。

写真/二十六夜塔

 七北田地区

旧国道沿いの山の寺洞雲寺入り口にあたる所に「日露戦役記念碑」が建っています。
山の寺洞雲寺の旧門前を撮った写真と見比べてみてください。
左側に記念碑が写っているのが見て取れます。

写真/日露戦役記念碑

 市名坂地区

市名坂の二柱神社内にある石碑群です。
ここには横山雷神はじめ、山の神、馬頭観世音、馬櫪神(ばれきしん)などの石碑があります。
馬櫪神の由来は古く中国の宋時代に遡り、厩(うまや)の守護神として、馬を扱う馬喰(ばくろう)を職業とするものに崇敬された神様です。
馬頭観世音と同様に、馬の安全を祈願して建立されたものと考えられます。

写真/二柱神社内の石碑

 大沢地区

七北田大沢字中才の大沢阿弥陀堂の前に永仁の碑があります。
永仁2年(西暦1294年)に建てられました。
種子はバン(金剛界大日)が刻まれており、根白石字君が代にある弘安の碑とほぼ同時期に建てられた、泉区内で最も古い板碑の一つです。

写真/永仁の碑

 松森地区

熊野神社の境内には、庚申塔があります。
庚申(かのえさる)講は中国から伝えられたものです。
人間の体には三戸(さんし)の虫が住み、庚申の夜、人々が眠ると体から出てきて、天に上り、天帝にその人の悪行を告げて天罰を与え、大病にするという言い伝えがありました。
そこで庚申の夜は三戸の虫が体から出てこないように眠らずに謹慎したのが、庚申の行事です。

写真/熊野神社の庚申塔

 種子(しゅじ)とは?

多くの古碑・板碑には、種子(梵字)が刻まれています。
種子は、祭る仏を1字で表すものです。
分かりにくいのですが、参考として対照表を掲載しました。

画像/種子(しゅじ)の対照表

写真:昔の写真は、元泉市誌編纂委員会副委員長庄司健治氏のコレクション。最近の写真は「いずみまちづくり研究会」からお借りしています
出典:根白石村史、泉市誌、グラフ泉、いずみのふるさと(総集編)、続みーつけた、泉市の文化財、七北田川まるごとガイドブック

ほかのページは、こちらから

関連リンク

泉なつかし写真館では、「泉市誌」(昭和61年11月発行)の編纂(へんさん)に使用された貴重な写真などを使いながら、懐かしく、また、新鮮な泉について紹介しています。また、泉史跡めぐりでは、泉区内にある名所・旧跡を分かりやすく説明しています。

お問い合わせ

泉区役所総務課

仙台市泉区泉中央2-1-1 泉区役所本庁舎3階

電話番号:022-372-3111

ファクス:022-375-3785