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更新日:2016年9月20日

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いずみ史跡今昔物語―第7回 古内めぐり 古内街道を歩く

古内道路は七北田字八乙女から西に向かい、上谷刈を経て実沢に至る、無串橋までの4キロメートル余りの道路です。古内部落は上谷刈の丘陵に囲まれた七北田川沿いの小さい村でした。

無串橋から100メートルほど上流にある、川が右にカーブをしている付近を「太夫渕」といいます。昔は馬ならしの足洗いの渕で、藤原秀衡が源義経に贈った名馬「太夫黒」はここで育ったことから、太夫渕と名付けられたと伝えられています。

このあたりの段丘を柳沢と呼び、平泉藤原の家臣で藤原氏が滅亡した後に、地侍となって土着したとされる若有家の屋敷跡があります。近郷きっての長者といわれた豪壮な屋敷でしたが、明治に没落し、現在は石垣だけが残っています。屋敷内にあった太い黒松は、昭和30年に実沢の西照寺に移植されています。

古内地区付近の道案内

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古内地区周辺の地図

今回紹介する史跡一覧

賀茂神社

賀茂神社は、下賀茂神社と上賀茂神社の二社からなり、本殿と棟札2枚が宮城県の有形文化財に指定されています。
元禄時代、仙台藩四代藩主伊達綱村(だてつなむら)公が塩釜神社を改築する際に、境内にあった只州(ただす)の宮を下賀茂神社として現在地に遷宮し、その後、上賀茂神社をこの地に勧請(かんじょう)しました。
両社とも萱葺きの屋根の一間社流造(いっけんしゃながれづくり)、朱塗りです。
3方向に縁を巡らし、全面に勾拝(こうはい)と階段下に浜床(はまどこ)を備えています。
彫刻については、細部をみると左右に相違が見られます。

神社の裏手には七北田川が流れ、馬頭観世音の碑があります。
また、緑に囲まれた境内や参道には、イロハモミジやタラヨウ(いずれも宮城県指定天然記念物)、アラカシ(仙台市指定天然記念物)などの貴重な古木があり、四季折々を通じて訪れた人の目を和ませてくれます。

昔の写真

今の写真

賀茂神社(昭和50年)

賀茂神社

賀茂神社棟札(昭和50年)

この棟札には、下賀茂神社は元禄9年(西暦1696年)、上賀茂神社は翌元禄10年に成ったことが書かれています。

賀茂神社の屋根吹替え

賀茂神社裏の石碑群

賀茂神社のイロハモミジ

イロハモミジは、賀茂神社の参道入り口の鳥居の後ろに東西に並んで2本あり、東側の1本は樹齢100年以上と推定されています。
2本とも樹勢が旺盛で、晩秋には美しい紅葉が見られます。
賀茂神社には、ほかにタラヨウやアラカシといった市内でも有数の古木があります。
樹齢100年以上と推定されるタラヨウは宮城県指定天然記念物、樹齢200年以上と推定されるアラカシは仙台市指定天然記念物となっています。

昔の写真

今の写真

賀茂神社のイロハモミジ(昭和56年)

イロハモミジと鳥居

雲水神社(二渡神社)

もともとは古内村の一村鎮守で、今でも古内地域で祭祀が行われています。
地元では二渡(にわたり)神社として敬われています。

昔の写真

今の写真

雲水(二渡)神社(昭和50年)

雲水(二渡)神社

稲荷神社

寛永16年(西暦1639年)晩秋の早朝、村の道端に行器(ほかい)が1個落ちているのを村人が発見しました。
中には熱い湯気の立つ赤飯が一杯に入っていて、蒸し立てのようでした。
集まった村の人々は奇異なこととして、壇を築いてこれを埋め、上に稲荷神社を建てたことが「封内風土記」に書かれています。
行器壇(ほっかいさま)として尊崇厚かったのですが、団地造成により現在はありません。

昔の写真

今の写真

稲荷神社(昭和40年)

神社があった加茂五丁目付近

慈眼寺

古内字糺(ただす)にある盛徳山慈眼寺は臨済宗の寺で、仙台北山の資福寺の末寺です。
古内志摩の父である義実が建立しました。
義実は承応8年(西暦1652年)に江刺市岩谷堂で亡くなり、同地の徳林山崇賢寺に葬られています。
義実の奥方(古内志摩の母)の父親は支倉常長をメキシコまで迎えに行った横沢将監です。
この慈眼寺から100メートルほど南の小高い山の急斜面の上には、古内志摩の墓があります。

昔の写真

今の写真

慈眼寺(昭和50年ごろ)

慈眼寺

古内志摩の墓

古内志摩は名前を義如といい、初めは治太夫と称していました。
3代藩主伊達綱宗公に仕え、4代藩主綱村公のときに家老となりました。
寛文11年(西暦1671年)、大老酒井雅楽頭忠清邸で、伊達安芸と伊達式部の所領紛争の裁判を行っているときに、原田甲斐が安芸らに襲いかかり、甲斐も柴田外記、志摩らによって斬殺されました。
これがいわゆる寛文事件(伊達騒動)です。
柴田外記は重傷を受け亡くなったので、実情を知るのは古内志摩一人であったと伝えられています。

志摩は延宝元年(西暦1673年)、43歳で没し、慈眼寺に葬られています。
写真右の上の写真は、平成15年5月の宮城県沖地震で墓が倒れたときのもので、その下は改修後のものです。

昔の写真

今の写真

古内志摩の墓(昭和50年ごろ)

古内志摩の墓(平成15年の宮城県沖地震後)

古内志摩の墓(昭和50年)

古内志摩の墓(倒れた墓の改修後)

古内道祖神

実沢早坂下にも道祖神がありますが、古内にも同様の道祖神があります。
塞の神、幸の神、道陸神ともいわれ、もともとは悪疫、悪霊が外から入らぬようにと村の入り口で塞ぐ神様とされましたが、後に幸の神とか、行路安全の神、さては安産の神へと変化しました。
本尊には木や石で作った御神体が祭られています。

昔の写真

今の写真

古内道祖神(昭和40年ごろ)

古内道祖神

太夫渕・若有家跡

左の写真は無串橋の上流にあり、藤原秀衡の愛馬「太夫黒(太夫五郎)」が育ったといわれる太夫渕です。
右の写真は秀衡など藤原家一門に仕えた若有家の館跡で、豪壮な建物だったそうです。

昔の写真

今の写真

太夫渕

若有家館跡

写真:昔の写真は、元泉市誌編纂委員会副委員長庄司健治氏のコレクション。最近の写真は「いずみまちづくり研究会」からお借りしています
出典:根白石村史、泉市誌、グラフ泉、いずみのふるさと(総集編)、続みーつけた、泉市の文化財、七北田川まるごとガイドブック

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