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更新日:2016年9月20日

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いずみ史跡今昔物語―第13回 松森めぐり 松森街道を歩く

松森は泉区内で最も東に位置し、宮城野区の岩切や鶴ケ谷、南は青葉区の小松島や旭ケ丘などに接する広大な面積の地区です。かつて松森の中央は、本町、下町、内町と熊野神社周辺でした。現在、南北に多くの団地が造成され、中心部に農村部が残る形になっていますが、最近は大分開発が進んでいます。

  • 多賀城への道
    松森の町から東へは松森台、岩切を通り多賀城へ続いています。藩政時代、岩切に冠屋という市場があったので、物資の売買のために、大沢方面からも松森を通リ冠屋市場に来ました。
  • 七北田への道
    松森から清水寺門前鹿島へ、柳清水、萩の清水の湧水地脇を通り、本田山、山下から要害川橋を渡り、実相寺門前を通り七北田へ入る道があります。
  • 仙台への道
    鹿島囲の南から畑地を通り、七北田川を越えて下河原に出て浦田の子安観音から前沢、天ケ沢、後沢などから浦田山の険しい尾根を通る坂道がありました。前坂は七曲の難所で、道も狭く石ころだらけ、ぬかるみの道でした。しかし、峠道宮町まで3キロメートルと近いので仙台に行く時はこの道を利用しました。

松森地区付近の道案内

地図の史跡名をクリックすると、その項目に移動します。

松森地区付近の地図

今回紹介する史跡一覧

 松森熊野神社

熊野神社は、七北田村一村鎮守の神社です。
氏子は春秋の祭典や正月詣、6月30日、12月31日の大祓いの行事の際に、家内安全、無病息災、五穀豊穣を祈願します。
また、昭和40年ごろより、年2回、熊野講が熊野神社周辺の人々13人で営まれています。
講とは信仰を同じくする人が結んで集まるもので、当番にあたる方を手方(てかた)と呼び、一番方から二番、三番に分かれてお世話をします。
手方になった家で料理膳を作り掛軸を掛け、お灯明、酒などを用意します。
神官によって祝詞(のりと)があげられ、講員は家内安全、無病息災、五穀豊穣を祈願した後、直会(なおらい)を開いて膳をかこみ懇親会を行っています。

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松森熊野神社(昭和50年)

松森熊野神社

 松森薬師神社

松森内町の岩崎屋敷に祀られていたお薬師さんを明治12年に薬師神社と改めました。
お薬師さんの本尊、木仏立像(一尺二寸)と日光菩薩、月光菩薩が祭られています。
大正4年、県や村の神社合祀の推めで熊野神社に合祀されましたが、その年町内一帯に悪い病気が流行したため、本尊をもとへ奉還したと伝えられています。
お薬師さんへは、大病の快復を祈願して、お百度参りをしました。
町内に長患いの病人がでると、人びとでお薬師さんの長い石段の上り下りを百回繰り返して、早い快復を祈願したそうです。

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松森薬師神社(昭和50年)

松森薬師神社

薬師神社

松森薬師神社内部

 大甕神社

伊達家が福島県梁川に住んでいたころ、家臣の熊谷半太夫の屋敷内で、ある晩大きな音がしました。
翌朝、庭に出てみると高さ三尺、周囲三尺ある大きな甕(かめ)が落ちていました。
この甕は、昔スサノオノ尊が八岐大蛇(やまたのおろち)を退治するための酒造りに使用した八つの甕の一つであるといわれたことから、祠を建てて祭ったものと伝えられています。
熊谷氏は、藩主の国替に従って仙台に移り、明治には武士の身分を離れて松森に住居を求めました。そして明治11年に祠も松森に移しました。
その後、熊谷氏は北海道に移りましたが、後地を預かり受けた斎藤氏が社名を「大甕(おおかめ)神社」と改め、祭祀を受け継いでいます。

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大甕神社(昭和50年)

大甕神社

かめっ子の宮

大甕神社内部

 松森山清水寺

応仁2年(西暦1468年)天台宗の僧、東海遠光法師が京都音羽山清水寺より千手観音の像を勧請して全国を行脚しているとき、松森の地で急に背負った笈(おい)が重くなりました。
仏の御心とこの笈を下ろして草庵を建て、切登山清水寺として安置したのが始まりとされています。
現在は松森山清水寺(しょうしんざんせいすいじ)の名で知られています。

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松森山清水寺(昭和50年ごろ)

松森山清水寺

 八瀧不動

「八瀧不動神社」と彫られた文字碑です。
もともとは松森の関場山の沢にありましたが、団地造成に伴い、南光台南三丁目の公園の中に移されました。
20年程前からは、南光台団地の住人が大勢集まってにぎやかに「どんと祭」が行われています。

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八瀧不動(昭和50年ごろ)

八瀧不動

 天ケ沢不動

昔はすず(湧き水)が流れていてきれいな水がある場所にあり、主に下流の小田原や原町からお参りにきていました。
南光台団地の造成に伴い、南光台五丁目の南光台北保育所斜め前に移されました。

昔の写真

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天ケ沢不動

天ケ沢不動

 松森焔硝蔵跡

南光台東小学校より東に10分位の場所に、仙台市指定史跡にもなっている松森焔硝蔵跡があります。
焔硝(えんしょう)とは火薬のことで、仙台藩の火薬庫でした。
昭和57年に行われた発掘調査では、爆発の跡も発見されています。
現在も火薬庫の原型を留めた土塁を見ることができます。

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松森焔硝蔵跡(昭和57年)

松森焔硝蔵跡

 松森城・鶴ケ城跡

松森城跡は、鶴の翼の形をしていることから、別名「鶴ケ城」とも呼ばれています。
現在はあずまやなどが整備され公園として利用されている頂上の平場は本丸跡で、西部の平地は二の丸跡、北側は岸壁になっている山城です。
戦国時代に国分盛顕がこの地に移り、続いて国分彦九郎盛重が天正のころまで居住しました。
盛重は伊達政宗の叔父にあたります。
国分氏はこの館跡を根拠としてしばしば岩切城主の留守氏と戦いましたが、慶長元(西暦1596)年に没落しました。
国分氏の没落後は伊達氏の所領となりました。
仙台藩では例年鳥追猟等を使って戦陣講義の行事が行われたと伝えられています。

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松森城跡(昭和60年ごろ)

鶴ケ城跡(松森城跡)

本丸跡

友崎観音

安産や子育ての神様として昔から祭られていました。
昭和30年代に始まった南光台団地の造成により、浦田山に点在していた馬頭観音もまとめて一緒に祭るようになりました。

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友崎観音(昭和50年)

友崎観音

子安観音

安産を祈願する観音様です。
お堂の中には、右側にお腹の大きい観音様、左側に子どもを抱いている観音様の石碑が祭られています。
毎年11月17日に例祭が行われ、当番で3人ずつ手作りの精進料理を供えます。
ほかに赤飯、うーめん汁、煮物、果物を供えて祭っています。

昔の写真

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子安観音

子安観音

写真:昔の写真は、元泉市誌編纂委員会副委員長庄司健治氏のコレクション。最近の写真は「いずみまちづくり研究会」からお借りしています
出典:根白石村史、泉市誌、グラフ泉、いずみのふるさと(総集編)、続みーつけた、泉市の文化財、七北田川まるごとガイドブック

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