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更新日:2016年9月20日

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いずみ史跡今昔物語―第5回 実沢めぐり 中山道を歩く

中世の実沢には、「山村宮」という南朝の皇子と推定される人物が山村城に住んでいたと伝えられています。山村城は「山内須藤刑部」が居住した「山野内城」(山邑城ともいわれる)のことであり、現在、六堂屋敷の阿弥陀堂がある小高い山一帯がその城跡です。

藩政時代の「実沢村」は戸数が60軒余り、人口が470人と比較的住民の多い村でした。田畑のほかお茶の生産が盛んなところで、実沢のお茶は仙台藩では非常に高い銘柄とされていました。このお茶をはじめ、根白石地区の農産品は実沢の「中山道」を通り、北山経由で仙台に送られていました。

また、この実沢戸平地区には大正8年に「大日本鉱泉株式会社」が設立され、清涼飲料水(ラムネ)が生産されていました。同地区に純良な天然の炭酸が湧出していたことから始められたもので、昭和14、15年まで生産が続けられていました。その後、第2次世界大戦の時には消火剤を作るための軍需工場に転用されたために生産を中止しました。現在でもガスの湧出が認められ、井戸の後も残されています。

実沢地区付近の道案内

地図の史跡名をクリックすると、その項目に移動します。

実沢地区付近の地図

今回紹介する史跡一覧

熊野神社

熊野神社は、国分氏の分流である八乙女氏が、没落後、実沢八乙女館に住んだ折に氏神様として造らせたとされ、その後、八乙女氏が宝暦頃に北根村(現在の青葉区北根)に転出すると、同社を現在の地に移して実沢村の一村鎮守としたものと伝えられています。
同社には、嘉永5年(西暦1852年)に建築された数少ない修験道場がありました。
しかし、昭和53年の宮城県沖地震で大破したため、旧道場を撤去し、新たに拝殿と長床(社務所)が建てられて、現在に至っています。

昔の写真

今の写真

熊野神社(昭和40年ごろ)

熊野神社

熊野神社(昭和55年)

熊野神社の拝殿

須賀神社

須賀(牛頭天王)神社は、明治42年に実沢にある8社を1区1社の形に改められるところでしたが、そのまま従前のところに置かれ部落ごとに祭祀が行われています。
本来、牛頭天王は祇園精舎の守護神で薬師如来の垂跡神とされ、神道ではスサノオノ命とされています。
以前は萱場川を隔てた対岸にありましたが、河川改修等により萱場河を渡らずに行けるようになりました。

昔の写真

今の写真

細椚須賀神社(昭和50年ごろ)

細椚須賀神社

諏訪大明神

諏訪大名神は実沢安部山にあります。
昔は実沢村一の神社であったと伝えられていますが、明治維新の際の廃仏棄釈によりご本尊は熊野神社に納められ、現在は武御名方命を祭っています。

昔の写真

今の写真

諏訪大明神(昭和50年ごろ)

諏訪大明神

山神社

山神社は実沢立田屋敷、泉パークタウンの入り口の病院のそばにあります。
もともとは寺岡山の東側のふもとにありましたが宅地造成により現在の地に移転されました。
言い伝えによると、明治初年、それまで斧を持った恐ろしい形容をした御本尊が盗難に遭ったことから、改めて同名の小牛田の山神社より分霊を受け神鏡に変えたとされています。

昔の写真

今の写真

山神社(昭和49年)

山神社

西照寺

仏光山・西照寺は、実沢一本橋にある浄土真宗の寺です。
延宝5年(西暦1677年)2月15日、仙台市の新寺小路の正楽寺境内に開山されました。
七北田浄満寺の檀家で西部の信徒が新寺の創建を希望しましたが、明治の新政府の方針で認められなかったため、荒廃していた正楽寺塔頭西照寺を移転し建てたものが西照寺です。

昔の写真

今の写真

西照寺(昭和50年ごろ)

西照寺

林泉寺

補陀(ふだ)山・林泉寺は、実沢寺内にあります。
山の寺洞雲寺の末寺とされ、文正元年(西暦1466年)2月8日に山の寺洞雲寺14世和尚によって開山された曹洞宗の寺です。

昔の写真

今の写真

林泉寺(昭和57年)

林泉寺

阿弥陀堂

「風土記御用書出」によると、阿弥陀堂は三堂屋敷にあったとされますが、河川改修や新道建設により、現在は実沢六堂屋敷、山野内城の一角である小高い山の中腹にあります。
以前は建物も仏像も相当朽ち果てていましたが、移転により立派に改修されています。

昔の写真

今の写真

六堂・阿弥陀堂(昭和59年)

六堂・阿弥陀堂

十王堂

十王堂は実沢の蒜屋敷にあります。
創建された時代は不明で、中には11体王が祭られています。
十王とは、閻魔(えんま)大王をはじめとする、冥土で死者の裁きをする十人の王の総称です。
十王信仰では、死者の罪の重さは、遺族などが死者に代わって善行を積み、供養することで軽減されるとされ、このお堂も死者が極楽浄土へ行けるよう祈願して建てられたものだと伝えられています。

昔の写真

今の写真

十王堂(昭和50年ごろ)

十王堂

十王堂内部

道祖神

実沢早坂下の北中山から根白石消防署に向かって下りてきたところに道祖神があります。
賽の神、幸の神、道陸神ともいわれています。
もともとは悪疫、悪霊が外から入らぬように村の入り口で塞ぐ神様とされましたが、後に幸の神とか、行路安全の神、さては安産の神へと変化しました。
本尊には木や石で作った男性の御神体が祭られています。

昔の写真

今の写真

道祖神内部(昭和53年)

道祖神

狼石

狼石(おいぬいし)は、以前は実沢早坂の東方、戸平山にありました。
中山一体の開発に伴い道端にあった石碑とともに集められ、現在は北中山小学校向側の見晴らしのいい丘の上にあります。
狼石には心温まる伝説が残されています。

昔の写真

今の写真

狼石(昭和59年)

狼石

八乙女館跡

八乙女館跡は八乙女川の段丘上にあり、東は萱場川の断崖を臨み要害の地となっています。
一部開拓されましたが、土塁や掘によって所在を確認することができます。
城主の「八乙女淡路」は鎌倉末期国分氏から分れた松森氏の分家に当たります。
天生年間に、伊達氏によって滅ぼされますが、後に伊達氏に服従し、七北田の八乙女真美沢に移ったと伝えられています。

昔の写真

今の写真

八乙女館跡(昭和50年ごろ)

八乙女館跡

山野内城跡

山野内城跡は実沢六道屋敷にあり、七北田川南岸に切り立つ、通称ウケスケ山に築かれた砦に近い山城です。
城全体に土塁や堀切などが残されていますが、遺構調査が進んでおらず、詳細は不明です。
源頼朝の奥州征伐(西暦1189年)に従軍した、相模の山野内三郎経俊に与えられた領地の一つで、文和4年(西暦1355年)に一族が当地に赴いて土着し築かれたものと伝えられています。

昔の写真

今の写真

山野内城跡(昭和50年ごろ)

山野内城跡

中山道

左の写真は、旧根白石村と仙台の唯一の交易道路であった中山道です。
終点は北山まで通じており、途中は今でも仙山線の根白石踏み切りとして遺されています。

右の写真は、昭和10年に操業中のラムネ工場を写した写真です。

昔の写真

中山道(昭和40年ごろ)

ラムネ工場(昭和10年)

写真:昔の写真は、元泉市誌編纂委員会副委員長庄司健治氏のコレクション。最近の写真は「いずみまちづくり研究会」からお借りしています
出典:根白石村史、泉市誌、グラフ泉、いずみのふるさと(総集編)、続みーつけた、泉市の文化財、七北田川まるごとガイドブック

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