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更新日:2016年9月20日

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いずみ史跡今昔物語―第3回 根白石めぐり かむりの里を歩く

根白石は、古くから泉区の西部地区の中心として栄えたところです。明治22年、朴沢村など6つの村が合併して泉嶽(いずみだけ)村になりました。明治30年に根白石村と名称を変更、昭和30年に七北田村と合併し泉村となるまで、根白石村の中心として、この地方の特産である薪炭や馬の放牧、農作物を中山道を通り北山を経て仙台へ出荷していました。

江戸時代には伊達政宗公の実祖母である栽松院が住み、没後、墓を白石城内に建てたことから、政宗公もよく根白石を訪れては満興寺に泊まり、お参りをしたそうです。そのせいか、仙台城内の女中衆の多くが根白石出身だったとされ、根白石は「美人の里(?)」とも呼ばれていたとか・・・。

今回は、歴史ロマン「かむり川伝説」に満ちた根白石を探訪します。

根白石地区付近の道案内

地図の史跡名をクリックすると、その項目に移動します。

根白石地区付近の地図

今回紹介する史跡一覧

宇佐八幡神社

根白石中学校の近くの小高い山(白石城跡)の上にあります。
同神社は以前は茅葺きでしたが、昭和55年、神社の改修にあたり、材料となる茅の入手が困難になってきたため、現在の姿である銅版葺きにしました。

昔の写真

今の写真

根白石地区付近の地図

神社屋根改修前(昭和55年)

宇佐八幡神社

落慶・上谷刈鹿踊(昭和57年)

宇佐八幡神社・扁額

兎口神社

明治41年2月8日、平林の兎口神社(第六天)と愛宕山の愛宕神社が合祀された際に、愛宕神社の社殿が移され社内に第六天が祭られました。
同神社にある神輿(みこし)は、以前は小型のものでしたが、昭和の初めの更新の際に、仙台青葉神社の神輿の担ぎ手が毎年根白石の若者が奉仕した縁故からもらい受けたものです(写真)。
しかし、もらい受けた神輿は重く担ぎ手がなくなったため、さらに新しいものにしましたが、それでも今の若者は担げなくなり、現在は車に乗せて地域を練り歩いています。

昔の写真

今の写真

八幡と兎口神社(後)

兎口神社

兎口神社神輿出発準備

兎口神社前の鐘楼

鷲尾神社

堂所、堂庭廃寺の宝塔跡近くにあります。
鷲尾大権現ともいわれ、福岡にある鷲倉神社の親類神です。
昔のご神体は石棒であったとされますが、現在のものは美しい不整形の文様が入ったご神体となっています。
根白石はもともと平家の落人が住み着いたとも伝えられていますが、その中にあってこの鷲尾神社は源氏の流れをくんでいると言われてています。
歴史の面白さを感じさせるものの一つです。

昔の写真

今の写真

鷲尾神社(昭和49年)

鷲尾神社

満興寺

大桂山満興寺は、永徳2年(西暦1382年)に岩手県永徳寺梅雪禅東が開山したと伝えられる古刹の一つです。
現在の本堂は明治に造営されたものですが、農家を移築して作ったものとされ他の寺の形とは趣を異にしています。
山門は4代藩主綱村公の時代に建替えられたままのものとも、永安寺より移築されたものとも伝えられています。
山門の屋根は、防火のため昭和初年に萱葺きから瓦葺に改められ、当初の部材は桁や門柱だけとなっています。
正面と背面の外観は一変し、正面は角柱の上に冠木をのせるなど端正な造りであるのに対し、背面は豪快な丸太の骨組みをそのまま現しています。
また、満興寺の七不思議と言われるさまざまな伝説が残されています。

昔の写真

今の写真

満興寺(昭和49年)

満興寺

満興寺山門(昭和55年)

満興寺山門

堂庭廃寺

黒川郡との郡境の標高240メートルの堂庭山山頂付近に建立されました。
昭和43年に行われた発掘調査で、瓦積みの基壇の中から円形に回る基礎が発見され、建物は宝塔跡(寺の跡)であることが明らかになりました。
10世紀中ごろに位置付けられる遺物が出土したことから、多賀城の西域を守る鎮護の寺院と考えられています。

昔の写真

今の写真

堂庭廃寺宝塔跡(昭和57年)

雪で覆われた堂庭廃寺宝塔跡

三十三観音堂

白石城内の平場、栽松院の墓の隣にあります。
西国三十三観音を安山岩製の石に浮き彫りしたもので、1基ごとに札所番号や寺号、寄進者の名前が記されています。
千手観音をはじめ多くの菩薩様が祭られており、江戸時代中ごろから流行した西国33所巡りを代用させる目的で19世紀半ばに作られたものと考えられています。

昔の写真

今の写真

三十三観音堂(昭和59年)

三十三観音堂

栽松院の墓

栽松院の墓は、白石城内にあります。
「栽松院」は「杉目御前」ともいわれ、伊達晴宗の夫人、伊達政宗の直系の祖母にあたります。
栽松院は晩年根白石で過ごし、文禄3年(西暦1594年)6月9日に他界しました。
夫人の死後、福島県の琥珀山宝積寺の僧能山を招き寺を建て、同じく琥珀山宝積寺と称しました。
墓石は、享保17年(西暦1732年)年吉村公が建てたもので、「栽松院殿月盛妙秋禅尼大姉」と刻まれています。
墓碑の両脇には杉の大木が2本ありましたが、昭和27年、いわゆる昭和の伊達騒動のときに借金のかたに伐られてしまいました。
右の写真は、現在満興寺に祭られている伊達晴宗・栽松院・政宗の位牌です。

昔の写真

今の写真

栽松院の墓(昭和57年)

栽松院の墓

栽松院の墓の前の杉(昭和27年以前)

伊達晴宗・栽松院・政宗の位牌

黒川安芸の墓

白石城の城主である白石参河守の兄である黒川安芸守晴氏の墓です。
栽松院の墓の西側に位置し大木の脇にあります。

昔の写真

今の写真

黒川安芸の墓(昭和59年)

黒川安芸の墓

弘安の碑

泉区内最古の板碑です。
種子(梵字)はバク(釈迦如来)で、弘安8年(西暦1285年)の年号が刻まれています。
高さ1.15メートル、幅50センチメートル、砂岩で作られており、別名「縛り地蔵」とも言われています。
なお、弘安の碑に次ぐ碑としては、大沢にある「永仁の碑」があります。
作られたのは永仁2年(西暦1294年)とされています。

昔の写真

今の写真

弘安の碑(昭和49年)

弘安の碑

白石城跡

白石城は東西150メートル、南北350メートルの規模を持つ山城です。
北側から西側にかけて長さ約120メートルにわたって土塁と空堀が残っています。
「仙台領古城書立之覚」には、「城主は白石参河というものである。今では子孫の白石勘之助が住んでいる。」と記されています。
白石氏は、戦国時代に国分氏の家臣に編成される小領主でした。

昔の写真

今の写真

白石城跡の枝垂れ桜(昭和58年)

白石城跡の桜

写真:昔の写真は、元泉市誌編纂委員会副委員長庄司健治氏のコレクション。最近の写真は「いずみまちづくり研究会」からお借りしています
出典:泉市誌、グラフ泉、いずみのふるさと(総集編)、続みーつけた、泉市の文化財、七北田川まるごとガイドブック

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