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更新日:2025年7月11日

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建て替えられた役所―Ⅱ期官衙―

建て替えられた役所ーⅡ期官衙ー

Ⅱ期官衙はⅠ期官衙の官舎や塀を取り壊し、真北方向を基準にして新たに建て替えられました。現在の奈良県に造られた藤原京(694年に遷都)の設計と類似することから、7世紀末頃に造られ、多賀城が創建する以前の陸奥国府の役割を担っていたと考えられています。四方が材木列で囲まれ、その外側には大溝と外溝の2重の溝が設けられた方四町(一辺が四町(約428m)の正方形の範囲を材木列で囲っていることからそう呼んでいます。)のⅡ期官衙を主要官衙として、その南方には大型の掘立柱建物群が配置される地区(南方官衙、寺院西方建物群、寺院東方建物群)や寺院跡(郡山廃寺)も発見されています。

Ⅱ期官衙の配置図

Ⅱ期官衙の配置図

 

Ⅱ期官衙の主な施設

区画施設

方四町Ⅱ期官衙は、一辺約533m四方に「外溝」を巡らせ、空閑地を挟んで「大溝」と「材木列」(一辺約約428m四方)で区画し、官衙の内外を遮蔽しています。南側(正面)には門跡も見つかっており、その柱には直径約50㎝のクリ材が用いられました。

材木列跡

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

材木列跡

南門跡南門跡

南門の柱南門の柱

政庁建物跡

中央からやや南寄りには、官衙の中心線を基準として左右対称に建物跡が配置されています。これらの建物は官衙の役割を果たすための主要な建物の跡と考えられます。

正殿跡正殿跡

 

石組池

官衙の内部には、中央から南寄りに、正殿、石組溝、石敷の広場、石組池、楼状建物などが配置されています。このうち石組池は、地方の官衙(役所)では唯一郡山遺跡のみで発見されており、蝦夷ヘの服属の儀礼などに使われていたと考えられています。

石組池石組池

石組溝石組溝

石敷き遺構石敷の広場

郡山廃寺

官衙の南には、概ね南北方向を基準として造られている寺の跡が発見されています。文献資料に記録がなく名称が不明なので、「郡山廃寺」と呼んでいます。

寺院跡は東西120~125m、南北167mの範囲に広がり、区画内の西寄りには講堂の基壇跡、その北には掘立柱建物による僧房があります。講堂の南側には仏像を安置した金堂などの瓦葺き建物が存在したのではと推定されています。区画の中央には巨石の埋もれていた伝承があり、塔の心礎である礎石であった可能性があります。

郡山廃寺は、陸奥国で最初につくられた本格的な寺院で、8世紀の中頃までは維持されていたと考えられています。

基壇基壇跡

井戸井戸跡

官人層の住まい

寺院の東側には、13棟の建物が建て替えられた跡(寺院東方建物群)が見つかっており、貯蔵容器の甕を含む多量の土器が出土しています。この地区が官人層の住まいではないかと考えられます。郡山遺跡のなかでは早い時期に終末を迎えます。

官人の住まい建物跡

京(みやこ)との共通点

Ⅱ期官衙は、藤原京への遷都(694年)が行われた頃に造られたと考えられます。官衙の中心に飛鳥地方の宮殿と同じような石組池や石組溝、石敷があること、官衙全体の規模が大きいこと、形態の点で藤原宮の設計が影響していることなどから、陸奥国に最初に造られた国府であると考えられます。

8世紀の初めから後半にかけ、主要官衙である方四町Ⅱ期官衙や寺院東方建物群などが、多賀城の創建や国分寺・国分尼寺の建立のなかで、その役割を終えます。

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