更新日:2017年4月28日

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市政だより2017年5月号・伊達政宗公生誕450年シリーズ

政宗の人物像(2)

仙台市博物館学芸員菅原美咲

伊達政宗の後半生

戦国武将としての印象が強い伊達政宗ですが、後半生は仙台藩主として藩の基礎を固めることに力を注ぎました。慶長6年(1601年)、岩出山から仙台に移ると、仙台城の築城、城下町の建設、瑞巌寺や陸奥国分寺、大崎八幡宮、塩竈(しおがま)神社など由緒ある寺社の造営・再興を次々と推し進めました。
産業・経済面では、家臣らによる新田開発を奨励し、米の増産を図ります。また、北上川の改修と石巻港の整備により、江戸へ米を廻送(かいそう)する舟運の整備を進めました。一連の政策を主導した家臣の中には、政宗が新規に召し抱えた者も多く、政宗による的確な人選が政策実現の背景にあったといえます。

写真:仙台市指定文化財 伊達政宗甲冑(かっちゅう)像 狩野探幽筆(部分)

仙台市指定文化財 伊達政宗甲冑(かっちゅう)像 狩野探幽筆(部分)
政宗の生前に描かれたもの。政宗自筆の和歌が記されている

実益を兼ねた趣味と教養

政宗には多様な趣味と教養があり、和歌、漢詩、茶の湯、能、香道などを嗜(たしな)みました。これらは幕府や公家、他家の大名らとの交流に不可欠で、政治的な情報を得る手段にもなりました。一方で、川狩り(川漁)や鷹狩り、鉄砲狩りも頻繁に行いました。特に鷹狩りを大変好み、徳川家康からは江戸近郊の久喜(埼玉県久喜市)に政宗専用の鷹場(たかば)を拝領しました。狩りは武士として必要な嗜みであり、狩りで得た獲物は幕府や家臣への贈り物にもなりました。
こうした実益を兼ねた趣味と教養を通して、政宗は戦国時代から江戸時代を生き抜いたのです。

政宗の人となり

政宗の人となりをうかがわせることとして、筆まめが挙げられます。公私にわたって多数の書状を認(したため)めた政宗。軍事や政策指示だけでなく、相手への配慮や自身の心境を率直に記すこともありました。娘や息子への情愛を感じさせる書状や、酒好きで知られる政宗が泥酔や二日酔いを謝罪する書状なども残されています。書状を通じたコミュニケーションが政宗をさまざまな場面で支えたのでしょう。
激動と太平の世を生きた政宗は、寛永13年(1636年)5月24日、70歳でその生涯を閉じ、今も瑞鳳殿に眠っています。
今年秋に仙台市博物館で開催する特別展「伊達政宗―生誕450年記念」では、政宗の生涯と人物像を多彩な資料から紹介する予定です。

写真:伊達政宗書状 金森出雲守重頼宛(寛永3年・1626年)8月16日

伊達政宗書状 金森出雲守重頼宛(寛永3年・1626年)8月16日
中秋の名月を詠んだ自身の和歌を手直しして送った自筆の書状

  • 本稿では、仙台市博物館の学術研究機関の立場から、歴史上の人名に敬称を付していません
  • 掲載した資料はいずれも仙台市博物館蔵。展示期間は博物館 電話225・3074にお問い合わせください