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開館時間

  • 9時00分から16時45分
    (入館は16時15分まで)

休館日

  • 月曜日
    (祝日・振替休日の場合は開館)
  • 祝日・振替休日の翌日
    (土曜日・日曜日、祝日の場合は開館)

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観覧料(常設展)

  • 一般・大学生 460円(団体 360円)
  • 高校生 230円(団体 180円)
  • 小・中学生 110円(団体 90円)
    ※特別展は別途

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更新日:2016年9月20日

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主な収蔵品(伊達政宗、戦国武将への道のり)

1.絵画 2.浮世絵 3.武器・武具 4.服飾 5.陶磁 6.漆器 7.人形

8.歴史資料 9.地図・絵図 10.慶長遣欧使節 伊達政宗 支倉常長 収蔵資料目録

1.政宗誕生 戦国武将への道のり

伊達政宗の誕生

伊達輝宗(肖像)
伊達輝宗

永禄10年(1567)8月3日、米沢城(山形県米沢市)主の伊達家に跡継ぎの男の子が生まれました。父は伊達家当主・伊達輝宗(てるむね)、母は山形城主・最上義守(もがみよしもり)の娘・義姫(よしひめ)です。
そのころの日本では、有力な戦国大名が全国統一をめざして戦いを繰り返していました。織田信長はすでに桶狭間の戦いで今川義元を破り、6年後の天正元年(1573)には室町幕府を滅ぼすことになります。政宗はそのような時代に生まれたのです。
伊達家17世として期待を集めたこの子は、梵天丸(ぼんてんまる)と名付けられました。

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梵天丸から政宗へ

愛姫(肖像)
愛姫

輝宗は跡継ぎ梵天丸の教育のため、様々に心を配りました。名僧として知られる虎哉宗乙(こさいそういつ)を美濃国(岐阜県)から招いたのも、そのひとつです。虎哉は一度は米沢行きを断りましたが、輝宗の強い願いによって元亀3年(1572)に資福寺(米沢市郊外、現在は仙台市青葉区北山)に来て、6歳の梵天丸の先生になりました。また片倉小十郎景綱(かげつな)を、政宗の養育係としたのも輝宗です。
しかし、この頃梵天丸は、疱瘡(天然痘)のために右眼を失明してしまいました。政宗は、親から授かった身体の一部を欠いたことを親不孝と考え、画像などを作成するときは、右眼を描くように、と後に語っています。天正5年(1577)、11歳の梵天丸は元服(大人として認められること)し、政宗と名乗るようになります。
これは名君だった9世「政宗」の名をもらったもので、輝宗をはじめ伊達家の期待の大きさがわかります。2年後には、三春(福島県三春町)城主・田村清顕の娘・愛姫(めごひめ)と結婚、さらに2年後には初めて戦いに出陣しました。
天正12年(1584)、輝宗は政宗に家督をゆずり隠居しました。父の隠居によって、政宗は18歳で伊達家の当主となったのです。

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戦国武将・政宗

伊達政宗の具足(写真)
伊達政宗の具足

政宗の青年時代はいくさに続くいくさの日々でした。初陣は天正9年(1581)、15歳のときです。
その翌年、本能寺の変で織田信長が死に、豊臣秀吉がいち早く明智光秀を討ち信長の後継者となりました。
そのころ東北地方には、最上(山形市)、葛西、大崎(ともに宮城県北部)、相馬(相馬市)、岩城(いわき市)、葦名(会津若松市)などの有力大名がそれぞれ城を構えていました。また福島県中通り地方には、田村、畠山、石川、二階堂、白川ら中小の勢力がひしめいていました。
こうした戦乱のさなか、天正13年(1585)、父輝宗が、二本松城主畠山義継に殺されました。政宗は、ただちにその敵討ちの戦いを始めます。「人取橋(ひととりばし)の合戦」と呼ばれる激戦を伊達成実(しげざね)らの働きでどうにか引き分け、政宗は翌年二本松城を手に入れ、念願の会津を攻める足がかりを得ました。その後いくつかの戦いを経て天正17年(1589)、ついに摺上原の戦いで会津の葦名義広(あしなよしひろ)を破りました。
東北地方の南部は、相馬領を除きほとんどが政宗のものとなり、当主となって5年目、23歳の政宗は伊達家の歴史の中で最大の領土を獲得したのです。

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