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更新日:2024年2月1日

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主な収蔵品 11 伊達政宗に関する資料(2)

2 戦乱の日々

秀吉のもとへ

画像/銀伊予札白糸威胴丸具足

銀伊予札白糸威胴丸具足

信長の跡を継いだ秀吉は、天正15年(1587)には西日本全体を支配下に入れ、さらに東日本も支配しようとしました。天正18年(1590)、秀吉は、小田原(神奈川県小田原市)の北条氏直を討つため京都を出発し、政宗にも小田原に出兵するよう強く催促しました。
ここで秀吉に従うか、小田原のあと東北にも攻めてくるであろう秀吉と戦うか、政宗は一大決断をせまられました。伊達家では何度も会議が開かれ、伊達成実(しげざね)は戦いを、片倉景綱(かげつな)は従うことを主張しました。政宗の結論は、秀吉に従って小田原攻めに参陣することでした。
江戸時代の記録によれば、出発前に政宗の毒殺未遂という大事件がおきたとされます。これは、政宗に代えて弟の小次郎を当主にするために、母義姫(よしひめ)が図ったものといわれ、母を斬ることをはばかった政宗は小次郎を斬り、小田原へ向かったとされていますが、真相は不明です。
小田原攻めは秀吉の勝利に終わり、秀吉は東北地方まで支配下に入れました。小田原に行かなかった大名の領地は没収され、秀吉の家臣に与えられました。また政宗の本来の領地は無事でしたが、摺上原の戦いで獲得した会津は没収され、蒲生氏郷(がもううじさと)に与えられました。

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岩出山移住と朝鮮出兵

画像/岩出山城絵図(部分)

岩出山城絵図(部分)

秀吉の東北支配に反抗して起きた葛西・大崎地方の一揆は天正19年(1591)7月、政宗が佐沼城にたてこもる一揆勢を討ちとって終わりました。秀吉は政宗の働きに対して葛西・大崎地方を領地として与えました。しかし同時に、米沢を中心とする本来の領地は取り上げられ、居城も岩出山(宮城県大崎市)に変えられました。
9月、徳川家康(まだ秀吉に従っていた)から城を引き渡された政宗は岩出山に移住し、新たな本拠地づくりに取り掛かりました。しかし落ち着く暇もなく秀吉から朝鮮出兵の命令が届き、翌年正月早々に政宗は、秀吉から割り当てられた人数の倍の3000の兵を連れて京都へ向かいました。さらに九州へ向かうため京都を出発した伊達軍のいでたちは、見物していた町の人々を驚かせるほど派手で奇抜なものでした。江戸時代に作成された伊達家の記録では、このときの伊達軍の装いが、「伊達者」という言葉の起こりとなったと伝えられていますが、実際にはそれ以前から使われていた言葉のようです。各大名の軍勢は、肥前名護屋(佐賀県唐津市)から朝鮮に渡りました。政宗も援軍として海を渡り、文禄2年(1593)4月、釜山に上陸しました。日本軍は苦戦しており、また風土病も軍勢を苦しめ、政宗の重臣の原田宗時(はらだむねとき)らも犠牲となりました。政宗の帰国は9月のことでした。

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政宗の最後の戦い

慶長3年(1598)、秀吉が63歳で死ぬと、政治の実権をめぐって徳川家康らと石田三成らの対立が激しくなりました。
慶長5年(1600)9月15日、家康軍は、関ケ原で三成軍を破りました。天下分け目といわれる関ケ原の戦いです。このとき、家康方についていた政宗は、三成方についた会津若松城の上杉景勝(かげかつ)の動きをおさえるため、7月に上杉方の白石城を攻め取り、9月には、上杉軍に攻められた山形の最上義光に援軍を派遣し、上杉軍は撤退しました。

画像/大坂夏の陣に出兵した伊達軍の図(複製・部分)
大坂夏の陣に出兵した伊達軍の図(複製・部分)

家康は、慶長8年(1603)に征夷大将軍となって江戸に幕府を開き、名実ともに全国を支配することになりました。しかし、まだ豊臣家に味方する勢力もありました。家康にとって豊臣秀頼が受け継いだ「秀吉の権威」は邪魔でした。家康は口実を作って慶長19年(1614)とその翌年、大坂城の秀頼を攻め、ついに滅ぼしました。この大坂の陣は、政宗にとって、最後の戦(いくさ)となりました。

 

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