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開館時間

  • 9時00分から16時45分
    (入館は16時15分まで)

休館日

  • 月曜日
    (祝日・振替休日の場合は開館)
  • 祝日・振替休日の翌日
    (土曜日・日曜日、祝日の場合は開館)

開館カレンダー

観覧料(常設展)

  • 一般・大学生 460円(団体 360円)
  • 高校生 230円(団体 180円)
  • 小・中学生 110円(団体 90円)
    ※特別展は別途

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更新日:2020年1月24日

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主な収蔵品(仙台城完成)

1.絵画 2.浮世絵 3.武器・武具 4.服飾 5.陶磁 6.漆器 7.人形

8.歴史資料 9.地図・絵図 10.慶長遣欧使節 伊達政宗 支倉常長 収蔵資料目録

3.仙台城完成

仙台に城を築く

政宗にとって岩出山は、秀吉から押し付けられた城でした。政宗はもっと南で交通の便利な場所を望み、家康から上杉景勝(かげかつ)をおさえるよう協力を求められたとき千代(せんだい)に城を移すことを願い出て、許可されました。
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いが終わると、政宗は早速城づくりに取り掛かり千代を仙台に改め、翌年4月、まだ工事中の城に移りました。政宗は35歳になっていました。岩出山にいた武士や町人は仙台に移住させられ、城と城下町の建設が、町人や農民を使って進められました。慶長15年(1610)には、豪壮華麗な大広間が完成し、仙台城はほぼ出来上がりました。
平成9年(1997)から開始された仙台城本丸の石垣解体工事と発掘調査によって、政宗が仙台城を築いた当時の石垣や、大広間の跡が発見され、仙台城の姿が少しずつ明らかになってきました。平成15年(2003)には、仙台城跡が国の史跡に指定されています。

仙台城(模型) 画像
仙台城(模型)

政宗が新しい城の建設とともに願い出た領地の拡大は実現しませんでした。多くの家臣を抱える仙台藩にとって、家康から認められた62万石では十分とはいえませんでした。政宗は北上川の流れを変える大工事をし、荒れ地を開発して新田を開かせ、足りない分を補いました。また新しい北上川の本流が海にそそぐ石巻を整備し、年貢米などを江戸へ運び出す港としました。
藩主政宗の努力により仙台藩の財政は豊かになりました。そして政宗がつくった城下町仙台は、その中心として栄えたのです。

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政宗と仙台の文化

25歳から35歳まで、つまり岩出山に城をかまえていた頃の政宗は、実はほとんど京都や大坂で暮らしています。秀吉に従わなければならず、武将としては悩みの多い時期だったと考えられますが、文化的には華やかな桃山時代に触れる良い機会でした。先生の虎哉宗乙(こさいそういつ)や父の輝宗(てるむね)から教えられた素養が磨かれ、政宗はこの時代の一流の文化人になっていきました。
仙台城を築くとき、政宗は建築や絵画、工芸の専門家を上方から仙台に招いており、彼らは城づくりだけではなく、政宗が力を入れた神社やお寺の建設にも参加しました。城は残っていませんが、瑞巌寺(ずいがんじ)や大崎八幡宮を見ると、政宗が、桃山文化を東北地方にもたらし、素晴らしい建築物を建てさせたことがよくわかります。

政宗が記した「道之記」(部分) 画像
政宗が記した「道之記」(部分)

政宗はまた、和歌や連歌、書、茶の湯、能などにも優れた才能を示しました。それは、中央の大名たちと対等につきあうためにも必要なことであり、危ないところで助かるきっかけになったこともあります。たとえば、遅れて小田原へ行った政宗が無事許されたのは、千利休から茶道を習いたいという政宗の申し出に、秀吉が感心したからだといわれています。

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晩年の政宗

 

伊達政宗画像(狩野安信筆) 画像
伊達政宗画像(狩野安信筆)

政宗の生きた時期は、戦国から近世へと時代が大きく変わるときでした。青年時代を戦国大名として過ごし、25歳からの10年間ほどは時代の変化を見て自分の生きる方向をさぐり、35歳からは藩主として仙台藩の基礎づくりに努力するとともに、江戸幕府の下で伊達家の地位の安定をはかってきました。
寛永5年(1628)、62歳の政宗は隠居所として建てた若林城に移りました。家康をはじめ、戦国の世をともに生き抜いてきた武将たちの多くはすでに亡くなり、2代将軍秀忠も隠居して、若き3代将軍家光の時代になっていました。泰平の世の到来とともに晩年を迎えつつあった政宗の胸中には、さまざまな思いがあったものと思われます。一方、藩の仕事や幕府との付き合いの合間には、茶会や歌会を催したり、漁や狩りを楽しんだりもしています。

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政宗の死と瑞鳳殿

寛永13年(1636)、少し前から体調が悪かった政宗は、この年の正月には死が近いことを感じていたようです。4月、自分の墓の場所は経ヶ峰(仙台市青葉区)とするよう指示しました。その後、具合は悪くなるばかりなのに、政宗は江戸へと出発しました。
江戸では、政宗の病気の重さをみて、3代将軍家光が自ら見舞いに出向きました。政宗は無理をして服装をただし迎えました。5月23日、妻の愛姫(めごひめ)や娘の五郎八(いろは)は面会を願い出ましたが、見苦しいところを見せたくないと断り、遺言と形見の品を贈りました。そして5月24日の早朝、政宗はその生涯を閉じました。70歳、当時としては長生きでした。

金製ブローチ 画像
金製ブローチ

政宗の遺体は、遺言どおり経ヶ峰に葬られ、寛永14年(1637)、息子忠宗によってお墓である瑞鳳殿が建てられました。その豪壮華麗な建物は、国宝に指定されていましたが、昭和20年(1945)に戦災で焼けてしまいました。昭和49年(1974)、瑞鳳殿を再建するために、発掘調査が行われました。このとき、中から遺体とともに文箱や煙管(きせる)、黄金のブローチなど、政宗が愛用し、大切にしていたと思われるさまざまな品物が見つかりました。その一部は、現在仙台市博物館に収蔵、展示されており、政宗の好みの一端を知ることができます。