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更新日:2024年2月1日

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主な収蔵品 12 支倉常長に関する資料(5)

7 キリスト教の弾圧

徳川家康は外国との貿易の利益のためにキリスト教の布教を黙認していましたが、その間にキリスト教の信者(キリシタン)は増え、全国に広まりました。家康は、キリスト教徒が団結して大きな力となることなどをおそれ、1612年(慶長17)に幕府の直轄領、1614年2月(慶長18年12月)には全国に禁教令を出してキリスト教信者への弾圧を始めます。仙台藩も常長の帰国直後に領内にキリシタン禁令を出し、取り締まりの強化にのりだします。

1624年(元和10)にはイエズス会のカルバリオ神父(ポルトガル人宣教師)をはじめ仙台領内のキリシタンがとらえられ、広瀬川で水責めにあって刑死するという事件もありました。結局、修道士らをよぶために使節を派遣した政宗も、幕府の方針には従わざるをえない状態となってしまったのです。

画像/ロザリオの聖母像 国宝「慶長遣欧使節関係資料」
ロザリオの聖母像
国宝「慶長遣欧使節関係資料」

左の写真は、常長が持ち帰った銅板画です。三日月の上にたつ聖母マリアが、右手に幼いキリストを抱き、左手にはロザリオを持っています。

マリアはバラの花がついたロザリオに囲まれ、天上には父なる神と天使が、地上には4人の聖者が描かれています。中央には、キリシタン弾圧の中、折り曲げられたものか痛々しいほどの傷跡が走っています。

 

 

8 常長が持ち帰った品々のゆくえ

政宗は、帰国後の常長から7年間の海外経験の報告を受け、その後幕府に報告書を提出しています。しかし、幕府の厳しい禁教政策のもと、常長が持ち帰った品々は、息子常頼の代にキリシタンに関わるものとして藩に没収され、決して表へ出ないように厳重に保管されました。このため、この後250年ものあいだ、慶長遣欧使節の存在は忘れ去られてしまったのです。そして1873年(明治6)に明治政府がヨーロッパとアメリカに派遣した岩倉具視らの使節団によって、訪問先のイタリア(ヴェネツィア)で常長の書状が発見され、やっと彼らの業績が認められるようになりました。

当時の日本におけるキリスト教の立場や世界における植民地政策を考えると、使節の目的であったメキシコとの直接貿易とフランシスコ会修道士の派遣が達成できなかったことは仕方がなかったことかもしれません。しかし、世界をまたにかけたスペインを相手に、外交使節として協約を結ぶために堂々と交渉することができたということは、高く評価されるべきでしょう。

常長が残した7年間の資料はタイムカプセルとして現在の私たちにさまざまなことを伝えてくれます。その歴史的価値は非常に高く、2001年(平成13)に歴史資料として初めて国宝に指定されました。その後、2013年(平成25)には、ユネスコ記憶遺産に「支倉常長像」「ローマ教皇パウロ5世像」「ローマ市公民権証書」の3点が登録されました。

 

画像/祭服 国宝「慶長遣欧使節関係資料」

祭服
国宝「慶長遣欧使節関係資料」

左の写真は常長が海外から持ち帰った品の1つである祭服です。祭服とは、教会で位が高い僧が儀式の時に身につけるもので、中央の濃い茶色のビロード地にはアカンサスの花が刺しゅうされ、天使の顔のアップリケが施されています。

また、両脇の薄茶色のきれ地にはぼたん唐草が刺しゅうされ、裏地には全体的にもえぎ色の平絹が用いられています。

 

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